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天保七年二月以来、霖雨頻りに降りて止まず、六七月の候に至りて、大
風雨益々甚だしく、米穀登らず、為めに天下大に饑饉し、衆民の困窮、
名状すべからず、是に於て、平八郎、殆んど之を傍観するに忍びず、時
の大坂町奉行跡部良弼に就いて屡々窮民賑恤の策を陳ず、而かも終に聴
かれず、後人、天保の饑饉、大恐慌として語るもの、即ち此時の事なり、
明くれば則ち天保八年にして、前年饑饉の後を受けて、衆民の困厄甚だ
し、加ふるに正月早くも悪疫流行し、万衆益々困難を重ねて、餓孚相継
ぐに至る、傷心惨目、亦見るに忍びず、而して官未だ之れが救恤の策あ
らず、又浪華の富豪、未だ其倉庫財を開かざるなり、所在号叫の声は、
天に響き地に聞ゆ、其音平八郎、心塊に徹し、骨髄に透り、最早黙すべ
からざるに至り、多年苦心惨憺蒐集したる所蔵の珍書、其汗牛充棟の
経史子集、総て其類を尽して、之を売却す、其得る所の金凡そ二万
両、皆な之を窮民に救与す、豈に亦一片愛惜の情なからざらんや、然
り而して此の英断、以て救助す、亦以て其仁心のある所を見るべし、
嗚呼平八郎、蔵書売却の金は限りあり、而して窮民飢餓の数は限りなし、
故に平八郎血涙の救助も僅かに其一時一部の人民を救ふに止まり、忽ち
傷心惨目の旧状に復す、是に於て乎、平八郎の仁心は一転して、半狂熱
血の火焔と為る、即ち晴天の霹靂、平地の波瀾、雷吼獅哮の一大飛躍を
試みんとするに至れり、此時に当りてや平八郎の仁心を仰ぎ、之を生親
として、尊崇する者夥多にして、一犬影に吠えて、万犬声に吠え、漸く
将に機の熟せんとするものあり、平八郎の其意、蓋し大坂城代、東西両
町奉行を始めとし、幕府の俗吏を屠り、官庫及び大坂市中富豪の家屋を
破毀し、其金穀を以て四境無数の窮民を救はんとするにあり、其心善し、
而かも其策や悪し、
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汗牛充棟
蔵書が非常
に多いこと
の例え
二万両は六
百余両の間
違いでは。
幸田成友
『大塩平八郎』
その111
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