『あわじ 第6号』淡路地方史研究会 1989.2 より
大塩の乱に対しで幕府は一さいの報道を禁じたが、一般民衆のこの事件に対する関心は高くひそかに事件の記録が次々と写しつがれていった。中ノ内村(現在の津名町生穂)庄屋の分家・堀口家蔵書『天保八丁酉年二月十九日朝五ツ時従大坂天満東与力町ヨリ出火之起 徒党人与力同心姓名及并連判写書人相風躰』(長帳仕立七枚綴)と表紙に書かれた一冊には四十二名の名前・家族・救民の旗を先頭に大筒・小筒・武器を持った戦闘隊列図・人数〆凡(しめておよそ)百三拾人斗と記され、まるで現場を「見て来た様な」一冊である。
『奸党連名写』は福良浦の庄屋山口吉十郎が書いたものと思われる巻紙一枚に三十九名の名前が記され最後に狂歌が書きそえられている。狂歌、大塩が書物を売りし施行こそ是や無本の初なるらん。など狂歌三首は、大坂東町奉行を揶揄したもので当時の民衆が幕府の政治体制に嫌気をさし「世直し」を望んでいた事がうかヾえる。又、内田村(洲本市由良)の庄屋・渡辺月石が著した淡路地誌『堅磐草』十巻の中にも大塩の乱について事こまかく記されている。
抑此度大坂大変ニ及ヒケル其子細ヲ録ス
の見出しで約三千六百字にまとめられた文章がある。乱の原因は
奉行所の不当裁判で大塩平八郎の挙兵は世の為、人の為に立ち上ったものだという様な内容である。渡辺月石は天保九年六月三十日八十五才で没しているので、大塩の乱があった天保八年は八十四才、この頃は白内障にかヽり不自由な老体に最後のカをふりしぼって記されたのではないかと思う。月石自身も当時の幕府や阿波藩の体制に対しで痛烈な政治批判の思想を持っていた事が感じられる。(庄屋の立場で政治を批判した文書を記した事がわかれば投獄や遠島などの罪になったかもわからない)
最初にふれた島田茂右衛門の日記の中にも、三月六日雨の一日だった文中に一年前より雨が多く天候不順が続き「水やけ」で農作業が全く進まず飢饉がくるのではないかという心配をしている。そして作物が値上りしでいたのが大塩の事件で少し値下りをして来たと記されてある。たしかに大塩の乱は単なる一与力の暴挙とは異り、時の政治の有り方に反省をせまるもので一般の民衆は心の中で大塩平八郎の行動に拍手を送り味方した。(この事件が原因で「天保の改革」が施行された)
大塩平八郎について書かれた徳島の阿部文明氏の文中には、
ところで大塩平八郎は稲田家臣・真鍋市郎の次男であった。それで、その情緒、論理や態度には浅葱者(あさぎもの)と呼ばれてさげすまれた稲田家臣団の無念の思いが根深いところで反映していたにちがいない。そうした無念、無残が大塩平八郎にあって、社会正義に転化した、といえないだろうか。
と、のべられている。たしかに大塩平八郎が阿波脇町出身だとす
ると、すばやい情報の伝播と、城代稲田九郎兵衛のあわたヾしい動き、淡路の庄屋の事件への処し方など最もな行動だと思われる。
明治の頃に消し去られた「大塩平八郎、阿波出生説」を当時の庄
屋、佐野家・島田家・山口家などの古文書を通じて稲田家臣、真鍋家に生れた「阿波出生説」を私は世に問いたい。
(参考文献の佐野・島田・山口家古文書は現在淡路文化史料館に寄託、保存されている。古文書の読み方は武田清市先生に御指導いたゞきました。)