Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.8.7訂正
2002.7.26

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「大塩平八郎の乱が及ぼした淡路への影響」

その5

野口 早苗

『あわじ 第6号』淡路地方史研究会 1989.2 より


禁転載

 こヽで最初の島田茂右衛門の日記と佐野助作の御用控、大火様子 承書をもとに少し整理をしてみる。

二十日急飛脚で大塩の乱の報が入る。組頭庄屋二人直に出立。
二十三日稲田九郎兵衛 徳島へ
二十四日佐野助作、淡路へ帰って来る
二十五日稲田九郎兵衛、徳島より帰って来る
二十六日人相書の触が出ている。海岸一帯を警戒(御用控の文 中「廿五日より海辺へ御手当御出張ニ付」とある)
二十七日公の場合以外は人の行来を止めたらしく、梅窓(俳人) が通行切手がもらえず旅に出られず困っている。
三月一日人改(あらた)め、淡路国中で戸籍調べが行なわれた。
三月六日稲田九郎兵衛 徳島行
三月七日手代、同心大塩一件で阿万行

と、実にあわたゞしい毎日である。短い間に城代が二度も徳島へ 渡り、毎日の様に武士が阿波と淡路を行き来する。大坂から僅か十二キロしかはなれていない生駒の四条村が何の変りもなく生活をしていたのに、はるか遠くはなれた淡路島がなぜこの様に騒がしく非常事体制をとったのだろうか。鳥井村庄屋の五郎左衛門の生活も通行する藩士の接待とそれに関する連絡に走り廻り、夜もゆっくりと寝られない状態が半月も続いている様子が茂右衛門の日記の中から想像が出来る。おそらく他の庄屋職にある人達もこれに近い毎日を送った事だろう。

 こヽで考えられる事は大塩平八郎出生論争である。明冶後期「阿波出生説」とそれを否定する幸田成友の「大阪説」が出て、幸田成友は偉い歴史学者という言で「大阪説」が正しいとされ「阿波説」が消されでしまったという事だが、昭和五十九年発刊『徳島の文化』第四号の中に大塩平八郎について書かれた阿部文明氏(ペンネーム東野静夫)より阿波説についての資料を色々といただいた。明治四十年七月発行「大阪平民新聞」(コピー)の中に

 又、岩佐富勝氏の著書『天保の青雲−阿波人・大塩平八郎−』(昭和五十五年発行)の本では多くの参考文献・関連図書目録をふまえ詳細に大塩平八郎が稲田家臣・阿波脇町在住の真鍋市郎の次男であったと実証的にのべられてある。

 江戸や京都で活躍した画家・白川芝山(洲本大野出身)が大塩平八郎と親交があった為、洲本郡代奉行に召喚され厳しい取調べを受けた事(会誌・あわじ1号 白川芝山・真野三干代氏著参照)大塩平八郎のデスマスクを描いた大阪の画家・藪長水(南淡福良出身・会誌・あわじ2号 薮長水とその周辺・黒田敏夫氏著参照)などが何故大塩にかヽわったのかという事も、稲田家臣の一族だった大塩平八郎とふるさとが同じ(同藩)だったからではないだろうか。



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