Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.10.30訂正
2002.8.16

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「大塩平八郎の乱と淡路島」
その2

野口 早苗

『大塩研究 第26号』1989.7 より


禁転載

  島田茂右衛門の日記より
     (天保八年二月・茂右衛門六十六歳)

 大塩に関する記録はこの日で終っているが大坂の事件が翌日の二十日には淡路に伝えられている。三日後には徳島と淡路の間を武士達がせわしく行き来しはじめ、三月一日には国をあげて戸籍調査が藩命によって行われ、一般庶民もこれに協力している。特に庄屋職にあると夜もゆっくり寝ていられない様な生活が半月も続いている。藩全体が非常事体制をとっていた事が想像される。

 日記の三月六日(雨の一日だった)の文中、一年前より天候不順が続き「水やけ」で農作業が全く進まず飢饉がくるのではないかという心配をしている。そして作物が値上りしていたのが大塩の件ですこし値下りして来たと記されてある。

 たしかに大塩の乱は単なる一与力の暴挙とは異り時の政治の有り方に反省をせまるもので後にこの事が原因で「天保の改革」が行なわれたものだと思う。




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「大塩平八郎の乱と淡路島」
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