『大塩研究 第26号』1989.7 より
この外、淡路の大塩の乱の情報は現在わかっている只一つの公文書と思われるものに人相書に続いて、次の文が書き加えられているものがある。
組与力大塩格之助同居父平八郎義不容易致企此度市中処々致放火反乱妨ニ付追々各荷担の者共なれども頭人ハ勿論其余各々荷担いたす同苗格之助并組与力瀬田済之助組同心渡辺良左衛門近藤梶五郎庄司儀左衛門其余多人数名前不知百姓町人共迄も行衛不相知処当表両川江内より乗船淡州え押移候義も難斗(はかりがたく)対公儀送賊ニ候
早々手配の上召捕可指出候様急ニ国許へ可申遣候事
酉二月
此度従
公儀御尋者の義ニ付右の通御書付を以被仰出候依て御家中一統無油断相心得罷在万一似寄の者見当候ニおいては早々御目付へ申出候様被仰出候条右様可相心得
此度申達候以上
郷御役所
酉二月廿七日
塔下村庄屋
高津惣兵衛殿
郷御役所とは洲本の役所で塔下村の高津惣兵衛は稲田九郎兵衛の取立庄屋である。藩の御用を勤める庄屋は塔下村の場合別にいた。したがって高津惣兵衛は洲本城代稲田九郎兵衛だけの御用を勤める非常に特殊な立場の者で大坂奉行所直接の文書と違い阿波藩洲本出張所より出された文書となっている。ここで最初の島田茂右衛門の日記をふり返り少し整理をしてみると二十日急飛脚で大塩の報が入る。佐野助作・仲野正平の二人がすぐ大阪行。二十三日稲田九郎兵衛徳島行。二十四日佐野助作帰淡。二十五日稲田九郎兵衛帰淡。二十六日人相書御触。海岸警戒。二十七日旅を禁じた為、梅窓(俳人)が通行切手が無くて困っている。公の場合をのぞいて人の行来を止めたらしい。三月一日人改め。六日稲田九郎兵衛徳島行。と大阪よりはるかに離れた淡路島なのに騷ぎが仰々しすぎる。短期間に城代が二度も徳島へ渡り毎日の様に武士達が徳島城と淡路を行来している。ここで考えられる事 は大塩平八郎阿波脇町出生説で脇町とは稲田九郎兵衛の拝地領で『天保の青雲−阿波人大塩平八郎』(岩佐冨勝著)に詳しく説明されているが、稲田家臣に関係が深い人物大塩平八郎となると騒ぎすぎも納得が行く。大塩平八郎のデスマスクを画いた薮長水は淡路福良の人であり、江戸や京都では活躍した画家、白川芝山(しらかわしざん)(洲本大野出身)も大塩平八郎と親交があったため洲本郡代奉行に召喚されて厳しい取調べを数ケ月も受けたという。白川芝山の孫で漠学者の仁羽武吉が大正六年に『白川芝山伝』という手記を著し、その中に
白芝山(はくしざん)(略した呼称)大塩氏と交際特に篤くして書面幾通も拙宅に有せしを惜しい哉明治十八年頃迄丁寧に保存したるを今は幾度か尋ね捜せども一通だに見当らず返す返すも遺憾なり
とあり明治初期には大塩平八郎の書簡が淡路に保存されていたらしい。