Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.10.30訂正
2002.9.13

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎の乱と淡路島」
その6

野口 早苗

『大塩研究 第26号』1989.7 より


禁転載

 大塩の乱に対して幕府は一さいの報道をゆるさなかったが、一般民衆のこの事件に対する関心は高くひそかに事件の記録が次々と写しつがれていく。中ノ内村(現在の津名町生穂)庄屋の分家筋にあたる堀口家に『天保八丁酉年二月十九日朝五ツ時従大坂天満東与力町ヨリ出火之起徒党人与力同心姓名及并連判写書人相風体扣』(長帳仕立七枚綴)と表紙に書かれた一冊があり四十二名の名前、誰がどこで(召捕、切腹)どうなったかとか二歳の幼児、十四歳の少年、平八郎や格之助、瀬田済之助の妻)が記されてある。救民の旗を先頭に拾目筒、大筒、小筒武器を持った戦闘隊列図、人数〆凡(しめておよそ)百三拾人斗。とあり終に「人相之事」大塩平八郎から庄司儀左衛門までの人相書があり、まるで現場を「見て来た様な」書物(かきもの)である。

 内田村(現在の洲本市由良)の庄屋・渡辺月石が淡路地誌『堅磐草(かきわぐさ)』十巻を著しその中に大塩平八郎の事件についても事こまかく記されている。

という見出しで約三千六百字にまとめられた文章がある。月石この時八十四歳、白内障で目も見えにくくなってい たが不自由な体で出来るかぎりの情報を集め息子の恒(ひさし)(弥三右衛門を襲名して内田村の庄屋をつとめる)も手伝って記したと思われる。郷土史家として偉大な足跡を残した渡辺月石は天保九年六月三十日八十五歳で没す。大塩事件の記録は最後のカをふりしぼって記されたもので、これらの事から月石は当時の幕府や阿波藩の体制に対して痛烈な政治批判の思想を持っていた事がうかがえる。




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