Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.9.20

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「大塩平八郎の乱と淡路島」
その7

野口 早苗

『大塩研究 第26号』1989.7 より


禁転載

 日本の国は其の後新しい革命の波が押しよせ、明治維新をむかえるが明治の初め頃、紀州の倉田磧という神官が三原郡八木の国分寺で学習塾を開き陽明学を教えた。この倉田という人は大塩の残党で大塩挙兵の頃は十代の最年少だった為追跡を逃れ生きのびた人である。この国分寺の塾へ鳥井村の島田彦七、邦二郎兄弟も通って勉学にはげみ大塩平八郎の思想は淡路の中ではぐくまれ後に自由民権運動となって花開いていく。

 島田彦七は鳥井村庄屋に生まれ(嘉永五年生)日記の筆者、茂右衛門の曽孫にあたる。大塩の乱の時庄屋をつとめいそがしく立ち働いた祖父五郎左衛門は彦七の十四歳の時に没したが、祖父の話や曽祖父の日記などで大塩の思想に感銘し国分寺の倉田塾に通ったのではないかと思う。島田家に所蔵されている彦七関係遺品の中に『洗 心洞詩文』中尾捨吉編、明治十三年。『洗心洞剳記』大塩中斎、明治十四年三冊。など其の他類する書物が多くあり、彦七宛の同志からの書簡も幾通かある。東雲新聞中西孝猪、鹿児島今西政嘉、高知本田可耕、大阪寺田寛、大阪ニテ石塚重平、淡路新聞社など島内外の人との交友や運動のたたかいの日々が文面からしのばれる。

 島田彦七は明治二十八年に没したが自由党総理、板垣退助から彦七に弔電が送られて来た(十月十五日付)。島田彦七追悼会宛。

 明治十四年五月植木枝盛と大井全普が淡路へ来て洲本と福良のニケ所で政治演説をした。『植木枝盛日記』によると五月十八日鳥井の島田彦七が洲本に植木枝盛を訪問したと日記に記されている。

 明治二十年、各府県の自由民権派が一斉に立ち上り十二月の全国統一行動には二府十八県の人民総代九十余人が結集して元老院に三大建白書(地租の軽減、言論・集会の自由、強硬外交)の決裁を迫った。彦七の弟、島田邦二郎は兵庫県の代表として一員に加わっている。

 天保八年に起った大塩平八郎の乱は、淡路の小さな農村の中でその思想が、茂右衛門−五郎左衛門−周太郎−彦七、邦二郎と引きつがれ、多くの同志と共に淡路における自由民権運動の輪を広げて行った。やがて立川雲平、広岡宇一郎らが自由平等平民主義を唱え全国各地で活躍した。

 大塩平八郎の思想は明治という時代をむかえてよみがえり世直しを敢行した。


        (淡路地方史研究会会員)




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島田耕「淡路島−一九三○年代の記億から−


「大塩平八郎の乱と淡路島」
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