Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.5.16

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「大塩の乱関係論文集」目次


「教談大塩後素」
その4
野口復堂(野口善四郎)

『通俗教談集 第一集』大倉書店 1912 所収

◇禁転載◇

 管理人註
   

若し天保八年が、慶応四年でありましたならば、後素は立派な西郷参謀で ござ 厶ります、錦旗の下に働いた者に相違厶りませぬ、勤王討幕の率先者、王 政維新の導火線と、謂て宜しいと思ひます。千日の刑場で幾千の捨札と共    こ        さ に黒燻げの骸を曝らしても、後素、宜しく地下に瞑ずべしと云ふ、一事実        が厶ります、は余の儀ではありませぬ、四台の木砲で、川崎の自邸を始 め組屋敷天満十丁目へと打ち出し、難波橋を南に、今橋筋、高麗橋筋の金                  くら          窟を襲ひ、東横堀を越へて平野町の米廩へ火矢や、砲碌玉を抛げ込んで居 る最中には、大阪市中は、丸焼けかと疑はれ、黒烟は朦々と天日為めに暗                                そ こ しと云ふ有様、十三里隔てた京都から能く火が見へたと申します。処で 大阪より京都へ早飛脚、大塩平八郎謀叛と云ふ事が内裏へ聞へる、御所は                あが 大騒ぎ、俄に九門の固めはと沸き騰る、此時の今上仁孝天皇は恐れ多くも、 「汝等騒ぐを要せず、平八郎は常に青表紙を読み居る者と聞く、闕下憂な し」と勅せられたと申すことであります。之れは明治聖代の今日なればこ   わたくし                     をくび そ、復堂も口にして憚りませぬが、維新以前には、之はにも出せませぬ、 若し一口でも申した者が有つたならば、其者の首の飛ぶは当然恐れ多くも        およ 煩累が、朝廷にばむにも限りませなんだ。

   


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