若し天保八年が、慶応四年でありましたならば、後素は立派な西郷参謀で
ござ
厶ります、錦旗の下に働いた者に相違厶りませぬ、勤王討幕の率先者、王
政維新の導火線と、謂て宜しいと思ひます。千日の刑場で幾千の捨札と共
こ さ
に黒燻げの骸を曝らしても、後素、宜しく地下に瞑ずべしと云ふ、一事実
そ
が厶ります、は余の儀ではありませぬ、四台の木砲で、川崎の自邸を始
め組屋敷天満十丁目へと打ち出し、難波橋を南に、今橋筋、高麗橋筋の金
くら な
窟を襲ひ、東横堀を越へて平野町の米廩へ火矢や、砲碌玉を抛げ込んで居
る最中には、大阪市中は、丸焼けかと疑はれ、黒烟は朦々と天日為めに暗
そ こ
しと云ふ有様、十三里隔てた京都から能く火が見へたと申します。処で
大阪より京都へ早飛脚、大塩平八郎謀叛と云ふ事が内裏へ聞へる、御所は
あが
大騒ぎ、俄に九門の固めはと沸き騰る、此時の今上仁孝天皇は恐れ多くも、
「汝等騒ぐを要せず、平八郎は常に青表紙を読み居る者と聞く、闕下憂な
し」と勅せられたと申すことであります。之れは明治聖代の今日なればこ
わたくし をくび
そ、復堂も口にして憚りませぬが、維新以前には、之はにも出せませぬ、
若し一口でも申した者が有つたならば、其者の首の飛ぶは当然恐れ多くも
およ
煩累が、朝廷にばむにも限りませなんだ。
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