然るに維新以後になつてさへ、大塩の大の字も在来の習慣で口にさへする
ござ わたくし
を、憚つた者が厶ります、即ち復堂の養母で、其養母の実母と云ふは、大
塩の縁類で、復堂の養家へ嫁いて参りし後、復堂の養母を生んで、右の叛
たゞち
乱直に離縁されまして、後何十年、藁の上で、母子別れしまゝ、一目も互
に交はした事が厶りませぬ、養母にすれば、苟くも幕飯を食む以上は、反
逆の縁を引ける母を慕ふべきに非ずと、其の武士気質が、維新秩禄奉還の
ふ と
後にも継続されて、復堂入家後も、依然として変らぬので、然るに風斗し
たことから、此秘密を発見し、終に養母を説いて、六十年目に母子の対顔
をせしめましたは、復堂の今に満足する処で厶ります。此秘密を発見致し
ました事実を、之れから申上げます、復堂は、今は人間が余程揉まれて。
なめし
滑皮の様に為つて居りまするから、一寸と致した事に腹は立てませぬが、
野口家へ入家当時は、血気盛んで、能く腹を立てましたもので、其腹を立
まるで きちがひ
てます毎に、養母は「宛然天満の 狂 じや」と識らず口走る癖が厶りまし
たが、之れは定めて、京で謂つたら「岩倉の狂」当地なれば「巣鴨の狂」
と謂つた様なもので、此家は大阪に近いから「天満の狂」かと、思ふて、
てんきやう
幾度言はれても、何等の不思議を感ぜぬのみならず「天満には、癲狂院あ
り」との自信が何時となく出来て、発狂者の話があると「そりや天満へ遣
つたが宜らう」などゝ、人に向つて語る様になりましたが、最後、人より
「天満に発狂人を扱ふ処、古来無し」と言はれて、赤恥をかき、早速養母
に「天満に狂」の理由を問ひました処、言を左右しにて、其実を告げませ
ぬ、
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