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わたくし
処で、復堂、印度より帰朝後、開進学校と云ふ私塾を自宅に開き、頻りに
学生の薫陶に従事致しました処が、其教授法が中々厳格で、鞭撻を加へる
は珍らしくない、苟くも門下にして不正の行為ある時は、鞭撻は愚か、足
か
を挙げて蹴り、悪罵痛罵、傍人も聞くに堪へぬと云ふ有様、恁う云ふ場合
らつ ま る
には、養母が飛び出し来つて其青年を拉し去り「宛然で天満の遣り口じや」
しつ
と呟く、或る時、京都の某先生に託せし書生が瓢然と帰り来り、復堂の膝
とゞま
下に止らん事を乞ひましたから、励声一番、「去れ奴輩、京都は此地の如
へんぴ
き偏鄙に非ず、交遊、従つて広し、汝を託するの師は、復堂如きの昏昧に
な わ れ
非ず、異日業就らば、復堂より迎へて、余が家塾に長たらしめん、汝、父
母の事は憂ふる勿れ、余、常に之を見る、逡巡は汝の為めに非ず、去らず
んば打たん」と座側の木刀を手にした。書生は驚き去りましたが。翌朝京
しらせ
都よりの報知で、書生の轢死を知りました、其後養母と復堂は、招かれて
其書生の家に往きましたが、僧を請じて、死者の冥福を祈ると云ふ場合、
祭壇には位牌を安置し、香華、供物、山を成すと云ふ有様、復堂は突然起
ち上つて、位牌を取るより早く、庭前の沓脱石に投げ付け「汝の薄志弱行
かんばせ
は、徒らん師命に背き、老いたる父母を悲しましむ、何の 顔 あつて、祭
壇の上に立つを得べき、僧家は之れが為め、冥福を祈るべからず、反つて
の ろ
此の忘恩者をして、後世の誡めに、地獄に堕落せしむる様、咒咀ふべし」
なだ
と来た時には、座中総立ちとなつて、復堂の怒を宥め、死者の両親は木牌
を復堂の前に置き、死者の口上を以て、師命に背きし罪を謝せしめ、復堂
の養母は、死者の口上を以て、木牌を以て両親に不孝の罪を謝せしめ、始
ゆ
めて僧侶の読経を免るしました。帰路養母が復堂に向ひ、「あなたは余り
に遣り過ぎじや、道理は道理じやが、余り厳しく遣り過ぎると終には思は
ぬことに、身を滅すことが出来ますぞ、不思議な程天満風じやと又例の天
満がでました、
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野口はオル
コット招致
のため1888
年インドへ、
翌年帰国 |