其後京都へ所用あつて上り、二三泊の後、帰りました処、養母は頻りと奥
とき わたくし
の座敷で、八十歳にも近き一人の老僧に斎を供して居りますので、復堂は
妻に向ひ、其何人なるかを尋ねました処「あれは吹田村より参りし、真宗
の僧侶にて、毎年一度づゝ、三月廿七日、御内仏へ御回向に」との事で、
復堂は養母の紹介で、始めて此老僧に挨拶に及びました処、此老僧、中々
ござ
の達弁で「イヤ之れは/\、当家の御主人で厶りまするか、愚僧は毎年参
上仕ながら、何時もかけ違い、御目に掛りませぬが、兼て御高名は伺い及
このあひだ おにし あなた
び居ります、過般も御西の勧学が先生に酷く遣られたと云ふこと、又総持
寺では、品川子爵も先生の「弥二さん念仏庵」には一番肝を抜かされたと
と
云ふことは、郡内の評判やら、朝日毎日の両新聞で疾くから承知致して居
こと
ります、ハイ/\御見受け申す処先生は未だ御年も若い、特に京都から当
家へ御入家と云ふこと、夫れでは一向御承知も厶りますまいが、愚僧は当
家とは古い馴染み、御系図迄存んじて居ります、古い処は源家に始り、中
古義春公へ御仕へなされたのが尾州中島郡東城の城主一万二千石、中島豊
後守、此方の三男が、中島石見守、之より分れて、野口家となつて、其野
口家の初代の弥兵衛定春殿は、長谷川侯に仕へて、地方代官役となり、元
ちようど
禄十六年に恰度此家で亡くなられたのであります。以後二百年余り、代々
此地の御代官役、随分古い家で厶りましよう、此家の膳椀の箱などに、中
島家と書いたのが沢山あります、之れは皆本家から分配されたものであり
ます」と諄々と説き来つて止る処を知らずと云ふ有様、復堂も耐り兼ね、
退席せんと致しますると、老僧は「先生一寸と御話申上げたい事も厶りま
す」と、今度は養母に向ひ「御婆さん、今日の仏の事は、愚僧より申さう、
隠して居るも善くない」と復堂に向つて老僧は「実は先生、今日の仏は大
おしをきば
塩で、千日御刑場の無縁仏、御養母の御実母は此人の縁を引くで、何様大
塩の死に様が死に様故、後々の祟り事等もあつては善くない、又浮かばせ
ても遣りたい、成仏もさせても遣りたいと云ふので、愚僧が毎年三月二十
ちようど
七日、恰度大塩が油掛町、三吉屋五郎兵衛の離れ座敷で養子格之助と焔硝
死致した命日に御上は愚か世間へは無論極内で、愚僧が必らず参詣致すこ
とになつて居る、今日は御一新以後、差し構への無い様なものゝ、矢張り
恥かしい事は恥かしで、い、隠しなさるは尤もじやが、先生には最早明し
わら は ゝ
ても差支へ無い、今更逃げも走りもなさるまいエヘ/\」と晒つて養母の
顔を見る、
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