Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.5.21

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「教談大塩後素」
その8
野口復堂(野口善四郎)

『通俗教談集 第一集』大倉書店 1912 所収

◇禁転載◇

 管理人註
   

其後京都へ所用あつて上り、二三泊の後、帰りました処、養母は頻りと奥                   とき           わたくし の座敷で、八十歳にも近き一人の老僧に斎を供して居りますので、復堂は 妻に向ひ、其何人なるかを尋ねました処「あれは吹田村より参りし、真宗 の僧侶にて、毎年一度づゝ、三月廿七日、御内仏へ御回向に」との事で、 復堂は養母の紹介で、始めて此老僧に挨拶に及びました処、此老僧、中々                     ござ の達弁で「イヤ之れは/\、当家の御主人で厶りまするか、愚僧は毎年参 上仕ながら、何時もかけ違い、御目に掛りませぬが、兼て御高名は伺い及       このあひだ おにし    あなた び居ります、過般も御西の勧学が先生に酷く遣られたと云ふこと、又総持 寺では、品川子爵も先生の「弥二さん念仏庵」には一番肝を抜かされたと                         云ふことは、郡内の評判やら、朝日毎日の両新聞で疾くから承知致して居                           こと ります、ハイ/\御見受け申す処先生は未だ御年も若い、特に京都から当 家へ御入家と云ふこと、夫れでは一向御承知も厶りますまいが、愚僧は当 家とは古い馴染み、御系図迄存んじて居ります、古い処は源家に始り、中 古義春公へ御仕へなされたのが尾州中島郡東城の城主一万二千石、中島豊 後守、此方の三男が、中島石見守、之より分れて、野口家となつて、其野 口家の初代の弥兵衛定春殿は、長谷川侯に仕へて、地方代官役となり、元      ちようど 禄十六年に恰度此家で亡くなられたのであります。以後二百年余り、代々 此地の御代官役、随分古い家で厶りましよう、此家の膳椀の箱などに、中 島家と書いたのが沢山あります、之れは皆本家から分配されたものであり ます」と諄々と説き来つて止る処を知らずと云ふ有様、復堂も耐り兼ね、 退席せんと致しますると、老僧は「先生一寸と御話申上げたい事も厶りま す」と、今度は養母に向ひ「御婆さん、今日の仏の事は、愚僧より申さう、 隠して居るも善くない」と復堂に向つて老僧は「実は先生、今日の仏は大      おしをきば 塩で、千日御刑場の無縁仏、御養母の御実母は此人の縁を引くで、何様大 塩の死に様が死に様故、後々の祟り事等もあつては善くない、又浮かばせ ても遣りたい、成仏もさせても遣りたいと云ふので、愚僧が毎年三月二十    ちようど 七日、恰度大塩が油掛町、三吉屋五郎兵衛の離れ座敷で養子格之助と焔硝 死致した命日に御上は愚か世間へは無論極内で、愚僧が必らず参詣致すこ とになつて居る、今日は御一新以後、差し構への無い様なものゝ、矢張り 恥かしい事は恥かしで、い、隠しなさるは尤もじやが、先生には最早明し                            わら    は ゝ ても差支へ無い、今更逃げも走りもなさるまいエヘ/\」と晒つて養母の 顔を見る、




















品川子爵
品川弥二郎
1843〜1900 


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