Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.12.11

玄関へ

大塩の乱関係史料集目次

「咬菜秘記」目次


「咬 菜 秘 記」その1〜3 要約

坂本鉉之助原著 荻野準造訳

禁転載

 坂本鉉之助著 咬菜秘記
     <大塩平八郎との交際の項>

要 約

 私が玉造組与力であった文政四年四月頃、同じ組に柴田勘兵衛という人がいた。この人は槍術の妙手で、平八郎はその門人であった。それで平八郎は勘兵衛の所へは折々参上していた。その時私も行き会わせて初めて知り合った。その席で、近日中に勘兵衛と一緒に平八郎方へ参ることを約束した。之は私が少々学問に志しているので、よい友達になるだろうと思って、勘兵衛が平八郎を紹介しようという事で、平八郎方へ同道してくれて、種々の物語を承った。

 続いて私が一人で平八郎を訪ねた時、話を聞いたあとで、「書物などは何なりとも貸してやろう」というので、『武備志』を十巻ばかり借りて帰って一読した。

 その後は一年に数回も面会するようになった。

 文政四年の或る日、一人で訪問した時、平八郎が私にしきりに学問を勧めてこう云った。

「学問は貧苦の中にて却って成就するものである。天満組の与力六十人居るが学問の出来る者は一人もいない。玉造や京橋の御組の方でないと学問は出来ぬと思っておる。さて貴兄は御城附の与力で武役専一のお方、僕は町与力の獄吏で、平日の公務は甚だかけ離れているが、万一有事の節は、御城附は勿論の事、獄吏の僕らも皆一同にこの御城を警衛して西三十三カ国を押えねばならぬと思っている。その様な時には、貴兄の御頭様は万石以上の諸侯だから相応の家臣等もあって、戦場の用に役立つとは思うが、之とても一概に当てにはならぬ、又僕の頭は三百俵や五百俵の小身で、譜代の家臣もなく、多くは役中だけ平常の公務に馴れた者を家来に雇入れているので、何ぞの節には一人も当てには出来ない。そんな時、この御城の一方をも堅固に警護する工夫はどうしたものか。貴兄は御城附のお勤めだから、なおさら御工夫はあるだろうが、さあ、その工夫はどうか。」

と、尋ねるので、

「差し当たりの工夫は何もない。今日弓を射、鉄砲を打ち、そのほか鎗剣等武技の稽古を心がけているのは皆其の時の為と思っている。」

と、答えたところ

「それは言うまでもない、武士として当然のことだ。我々より遥かに小給の、十石三人扶持の同心でも相応に武技には精を出しておる。之等はただ己一人の嗜みに過ぎず、これで御城の一方を護れるとは思っていない。頭も家来も頼りにせず、己一人の力でやれる工夫が聞きたい」

と云うので、私が答に窮し、

「中々その様な大度な処は工夫も覚悟もない。何卒その工夫を承りたい。」

と云ったら、傍の本箱から何か半紙二、三枚に書いた帳面を出して、

「これをご覧下さい」

というので手に取って見ると、穢多村渡辺村の穢多共の掟書である。

第一条は「公儀様ご法度の事、決して背いてはならない」などとあって、数カ条の末の一条に「我々どもは運拙くして、同じ人間に生まれながら、畜生同様に人間交りも出来ぬ身なれども、伝え承るに漢土樊噌という人は、屠者にて我々の仲間なれども、時を得て王侯貴人に至られし事あれば、我々どもも公儀ご法度をよく守り、今日悪事を致さず、律義に職業に精出さば、後に時を得て人間交りの出来る事もあるべき間、この掟の条々を一統よく守るべし」という掟書のくくりの箇条である。

 その時、平八郎が言いたいのはここだ。

「穢多共人間交りの出来ぬという所が彼等が第一残念に思うている処で、親鸞という智恵坊主はそこをよく呑み込んで、《こちらの宗門では穢多でも少しも障りはない。信仰するものは今世こそ穢多でも、後の世には極楽浄土の仏にしてやろう》と云うを殊の外有り難く思い、本願寺へ金子を上ること穢多程多き者はない。死亡後に有るとも無いとも分からぬことさえ人間なみの仏にすると云うことを、この様に忝く思うからには、今すぐに人間にしてやると申せば、この上なく有り難がり、火にも水にも命を捨てて働くに違いない。そうすれば何事ぞある時は五百や千の必死の人数は忽ち得られる事で、それをよく指揮すれば、必ず一方を守護出来るという心得である。当時、出水で堤防が危うく、之が切れては数万人の命にもかかる故、是非防がねばならぬという時は、いつも穢多を使って防いでいる。又市中の火災でも同じである。その時は穢多共必死になって働くから死人怪我人が三人五人と出ない事はない。この様な時に命を捨てて働くものは今時穢多に及ぶものはない。之をよく指揮して唯今本当の人間にしてやると申せば、十倍の力を出して働くだろう。だから何ぞの時は必ず御用に立つだろう。それゆえ平常その心得を持って随分不便を加え、又悪事をしたら厳重に取り計らい、既に穢多共十数人が博奕をしている所へ僕が踏み込んで一人も残らず召し捕った事もあり、その時は捕縄も不足して穢多共の帯を解いてくくった事あり。随分、威も恵も失はない様にしたので、穢多ども僕の事は至極畏れて有難がっていると申していた。」

 私はその時甚だ感心し、平八郎は中々大器量ある人で、私如きが思慮の及ぶ所ではないと唯閉口して聴いていた。

 平八郎二十八才の時である。

 その後、平八郎は追々重用され、仕事も繁多となったので、面会もわざと遠慮するようになり、全く途絶した年もあった。人の噂には、平八郎は殊の外気短かだと云うが、私が接した感想ではそのようには見受けられず、至極礼節等正しく、万端の話も至極面白く、その度に益を得る事が多く、文武とも私らより遥かに優れた人と思っていた。歳は私より二つ下にも拘わらず、政治の是非を論評する癖はあったが、私の身には至極益があったと思っている。云々。


「咬菜秘記」その1目次

大塩の乱関係史料集目次

玄関へ