『旧幕府 第2巻第9号』(冨山房雑誌部) 1898.9 より
見出しは管理人が便宜的につけたものです。
夫故、勘兵衛方へは折々参居候。其折節、貞も行合せ、始て識る人になり。
同席にて、近日 勘兵衛同道にて平八郎方へ可参筈に約束有之候。
是は 勘兵衛存念に、貞が少々学文にも志し候事有、善き朋友にも可有之と引合候にて、其後、平八郎方へ同道ありて、種々の物語承り、其後引続て一度、貞一人罷越、物語り承り、書物抔は何なり共貸呉候様に申に付、武備志を十巻斗りつゝ借り候て一覧申候。
其後、染々出会も不致。
追々盛に被用、役用も繁多之様子にて、面会も態と致遠慮居、此後八年、平八郎、本間重左衛門 本多為助も刀剣望にて致同道、一覧申候。
其節、平八郎申聞候は、貞に八ケ年前初て識る人に相成候趣申聞、貞は年月等忘却候得共、あの方記臆人にて能覚居申候事と感心申候。
此後は一年の内、三両度も面会之事も有之、又は絶て面会不致年も有之候。
人之噂にては殊之外短慮暴怒も有しやうに申候へども、貞抔か接眉の容体にては、人の申様にも見請不申。
至極 礼節等は正敷、万端の話も至極面白、其度に益を得ること多く、文も武も貞等より遥に優りし人と思ひし。
歳は貞より二つ劣り候。
如何様、妄りに政道を是非する癖は有之候得共、貞等が身には、至極益有と存居候。
近来著述の箚記抔も、忰格之助持参にて一部贈呉、其外詩文の石摺抔も贈呉候。
学文の筋抔は何とも心得兼候。
箚記中にも合点の行ぬ説有之候故、学文之処は、天満組風の我儘学文と致居候。
然る処、二月十九日之大変、同人所存、一円合点の行ぬ事にて、ケ様の事可致とは、夢さら覚悟不申、驚き入候。
段々跡にて熟察申候へは、其萌しの端緒かと存る事も有之候。
近来之作文作詩、兎角此世の中を渡り難き意味有之候。
先越高洲先生抔、唯今在世に候へは、此三五年以前に、定て交を絶ち被申哉とも被存候。
何分此方の学文、正道に明らかに無之候、而ては、ケ様之処にて幾を明らかにして未前を知ること埒明不申。
唯文学斗を俄に驚き申事にて、幾を知ると申処は、余程正道に明に無之ては参らぬ事と存候。
何分此方之学文の足ぬ故に候。
註 *1 岡本良一『大塩平八郎』収録のものには、次のような前文になっています。
咬 菜 秘 記(大塩平八郎譚) 大坂定番与力 坂本鉉之助遺稿 外務省通商局長安藤太郎氏の先人故安藤文沢翁ハ旧志州鳥羽の藩主稲垣侯の侍医なり。学を好み且つ温古の僻あり。安政中侯大坂城加番として同地に干役せしとき翁之に扈從せしが、此時大塩平八郎の事を探究し、同地定番与力坂本鉉之助なるものと親善したり。此坂本ハ当時大塩が幕下に在りて、股肱随一と呼れたる彦根浪人梅田源右衛門を騒乱の際鉄砲にて狙撃し、之が為め賊の軍気沮格し、忽ち敗走に及びしと云。此人文沢翁が古事を探るに熱心なるを見て、自から密に記し置きたる咬菜秘記、則ち此記を翁に示せしかバ、翁之を騰写し深く秘め置しものなりと。蓋し世に大塩の事を記せしも尠からざるも、恐らく此記より精確なるものハ非るべく、且此記の如きハ当時幕府の忌諱に触るヽものなるを以て、極めて秘密にし置きたるものなれバ、実に天下無類の奇書といふも決して過言に非ざるなり |
註 *2 同書には、次の文章があります。藤田顕蔵のことと思われます。
(阿州の産にて当地に医を業とせし何某と云ふ者、学力も大分是ある故、諸儒へも博く交り居りしが、越先生の事を他席にて甚固陋学なりと云ひしこと先生の耳に入り、素々固陋にハあれども彼等が如き雑学、殊に蘭学抔をするものゝ口から固陋と云ハるゝこと、其意を得ずとて直ちに交りを絶しが、其時他儒より段々挨拶もありしが、先生ハ一切承引なく夫れ限りにて絶交也。其三五年後切支丹一件にて此医師も終に御仕置に成りし。其時高洲先生の先見を感服せし事あり。) |