ところ
イヤ念仏など唱へてはならぬ。僕は斯うした死地へ導いたのは念仏の声
ではないか友を失ふた時、初めて友が知れる。詩は以て詩人の感興消滅の
おこ
報告ではないか。念仏を忘れ無ければ念仏心は生らない。神仏を棄て切ら
ねば神仏に救はれない。否、忘れるべき念仏があり神仏があるやうでは、
みかぎ
既に念仏に殺され、神仏に見捨られてゐるのである。無神無仏にして、然
り!無宗無信仰にして、初めて神仏に会へるのだ。信仰を篩ひ落し、神仏
かゝはり
と我と何の関係無きにいたつて、初めて信仰が体験され、神仏に摂取され
い い い
るのである。真人は名無しと、壮子も曰つて居る。神仏と名ひ、宗教と称
から
ふ畢竟それは殻である、戒名である。信者、教徒とは制度や信条の手枷足
枷にフン縛られた一種の罪人ではないか。況んや教祖をやである。僧侶、
てう/\
牧師の愚かなこと、口に信仰を云々し、神仏を喋々するものゝ総ては、名
ちしや
聞利欲の密猟者であり、罪悪伝波の蜘蛛状菌ではないか。誰か汝を縛する
や、我先づ我自らを解放してやらねばならぬ。欲望の縄目を解いてやらね
ばやくだう みいだ
ばならぬ。斯くして吾人の邁進すべき一脈の白道が発見されるのでは無い
か。全体僕等は人生の迷路に深入して、要らざる苦難を重るてゐるのであ
みつけ もつ いちぐち
る。早く其の出口を発見出さねばならぬ。併し其の出口は縺れた糸の 緒
同様、見付け出さうとすればするほど、紛れ込むとばかりである。縺れた
ゆる おも
なりに緩めて見ようではないか。つら/\顧へば僕が半世の心血は悉く己
れの為に注いだつもりであつたが、それが悉く自己の仇となつて居る。斯
ひと ど ど う
うすれば他に服するか、怎うすれば自己が輝くか、如何にかして偉いもの
すぐ あさ
になつてやらう。万人に勝れた智慧を発揮し呉れやうと、餓虎が食を漁る
如くに智識を求め、努力し奮闘し、苦労の有りたけを仕尽したが、而もそ
つまづ はづか きずつ
の悉くが己れを躓かせ、己れを辱しめ、己れを傷け、己れを葬るの努力で
あつた。思へば思ふほど悲惨なる努力であつた。僕の小さき利己心は僕の
あはれ にく
半世を棒に振つた。思へば実に憫むべき人間だ。否、僕の為には悪むべき
ひと
人間、牛裂きにしても飽足らぬ人間だ。他の為、世間の為には尚更ではな
いか。といつて今更怎うすることも能きない。一度死んで蘇るより道はあ
ねむ
るまいと思つて来て、何故か急に睡くて/\仕方が無くなつた。恐いもの
く
も無ければ欲も得も無い。馬に千駄の金は素より、たとへ世界を与れても
い いのち
要らぬ。妻子は愚か生命も要らぬ。神や仏も何も要らぬ。僕は我知らず大
もと すさま
樹の下へゴロリとやつた。感覚も意識も何も彼も氷つて了つたものか、凄
つるぎ
じい嵐の音も耳にとまらず、剣の如き寒気も覚えず、時間も忘れ、場所も
忘れ、我手足の何処にあるらんも覚えず、はては自体の存在すらはつきり
しなくなつた其時?何物の怪か、ドーツとばかりに五体の上へ落ちて来た。
づ
「はつ!」と気注いて我に返ると共にか、驚いて起上りかけたが、なか/\
た
如何して、なか/\起つことが能きない。墜ちて来た怪物は強風の為に揺
落された樹上の積雪であつた。僕は全身に浴びた雪を振ひ落さうとして、
漸つと自己の手足の存在に心づいた。否、五体のあることに気が注いた。
ひと い き
僕は凍死して居たのであつた。もう一刹那で全然脈が止がつて了ふところ
なだれ
を、崩雪の為に蘇らされたのであつた。崩雪は中斎先生の霊ではあるまい
ところ
か。斯くて僕は猛然たる生の執着に襲はれた。瞬刻限も斯うした死地に居
るのに堪へなくなつた。しかし既う周囲は真暗で怎うすることも能きない。
ばうひやう
月も星もマサカこの凄まじい暴に吹消されたのでもあるまいが…………
僕は吹飛ばれさうな風を避けて、辛くも残つた五七本のマツチを摩つたが、
つ
点くより消える方が早いといつたていたらく、到頭残りは一本になつて了
いのち おは
つた。さあ此の一本が生命の綱だ。これを無難に点火し了せねば金剛杖と
此処に心中せなければならない。
『南無大塩大明神……………………』
ねがは すく
願くば慈悲を垂れ給ひて、僕が危難を済はせ給へ、助け給へ…………と
ひれふ
覚えず大地に平伏して、一心に中斎の霊を念じた。
最後のマッチ(終)
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