Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.2.6

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『日 本 の 目 覚 め (抄)』
THE AWAKING OF JAPAN
その1

岡倉覚三 (天心 1862〜1913)
村岡 博訳(1895〜1946)

岩波書店 1940 より

◇禁転載◇


四 内部からの声 (1) 〔古学派〕

 魔杖一触、突如として我々を幾世紀の眠から醒ましたのは即ち西洋人であつたといふことは外国人の間の一般の意見のやうに思はれる。然し我々の自覚の真の原因は内部から来てゐるのである。我々の国民的自覚は既に千八百五十三年ペリー提督が我国に渡来した頃から起り始め、国家維新の一般的運動を開始するためのかの事件を待つのみであつた。

 三つの別々の思想の流派が合一して日本更生の起因となつた。第一の思想は探究することを教へ、第二は行動することを教ヘ、第三は行動の目的を数へてくれた。出発点に於ては凡ての流派が細流であつて、常に非難を受け往々流刑にまでも処せられながらも之をはぐくんでくれた独立不羈の思索家達の孤独の魂の中にその源を発してゐた。その流は牢屋の内から流れ出で、斬首台から滴り落ちることさへもあつたが、終に合流して全国民を浸した愛国的熟狂の奔流となつて躍進するに至る瞬間まで因襲といふ繁茂した植物の下に殆ど隠れてゐた。

 古学派として知られてゐる第一の学派は十七世紀末に御用学問の独断に抗議して興つたものてあつた。その創始者達は、徳川の学問所で授けるやうな朱熹の新儒教は真の儒教ではなくて、仏教と道教の新奇の解釈であると主張し、学者に勧めて聖人自身の原典に立ち帰り之について真の意味を新たに求めるべきことを説いた。朱熹の註釈は十七世紀宋の開明時代以来日支両国に於て正統と考へられ、その権威は疑ふ者もなかつたことを考へて見れば、古学派の採つた態度は大胆なものであつた。この学派が初めて徳川の人心を形式主義の束縛から自由にしたのである、その自由主義は何等特別の結論には到達しなかつたけれども。

 この探求の態度のためにかへつて古学派は単一の解決に結晶することが出来ないのである。この学派の墨守者の中で徂徠のやうな人々は、孔子は純然たる政治学者で倫理を教へる人ではないとまで主張してゐる。これに反して山鹿素行のやうな人々は(我々は儒教に基いた武士道の発達を素行に負うてゐるのであるが)日本の制度の中に支那の聖人の道徳律の表現を発見した。然し如何に個人的にその結論を異にしてゐても、正統の徳川流の考へ方に対して異端である点では一致してゐて、すべて御上のお咎めを受けるものであつた。即ち山鹿素行は、門人も可なり従へてゐたが、江戸から遠い取るに足りない赤穂藩へ追放せられた。然し赤穂の地に蟄居の間に於ても素行の人格は有名な四十七士を鼓舞して、あの忘れ難い忠節の功を成し遂げしめたのであつた。これは侍気質の新しい考を顕はしてゐるものとして注目すべきのみならず、徳川政治に対する雄弁な無言の抗議でもあつた。


『日本の目覚め(抄)』目次/その2

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