岩波書店 1940 より
◇禁転載◇
「日本の目覚め」は日露戦争も酣であつた明治三十七年(一九○四年)紐育のセンチュリー会社から出版せられたものである。今日でこそ真の日本の姿を見、真に日本を了解しようと努める外国人の数も年々増加して、少くとも外形に現はれてゐる日本の文化、日本人の生活は可成り多くの外国人に知られてゐるが、此の本が世に出た当時に於ては、今日の世界列強の国民の中にも、日本の存在をすら知らないものがあつたといふ事である。従つて、日本国民の真の生活、精神生活の方面に就いては殆ど知られてゐなかつた。ラフカディオ・ハーンの義侠的の筆や、シスターニヴェディタの「印度生活の組織」のやうな、特殊の外国人の著述が、東洋文化に関心を有つてゐる西洋人に多少は読まれてゐたが、日本人が日本人自らの感情の松明を以て、東洋の闇を明るくした著作の尤なるものは、実に天心の英文著書であらう。
天心は本書に於て、日本の目覚しい発達は、我が国民の内部に包蔵せられてゐた鬱勃たる生々発展の力が、春陽に廻り会ひ、新緑に萌え出でたるものとして、千古より一貫せる歴史的精神の流れを辿り、儒仏思想推移の跡を尋ねて、日本文明の精神は侵略を禁ずるものであると断じ、我我は平和愛好の国民であることを述べて「欧羅巴は我々に戦争を教へたが、何れの時にか平和の有難さを悟るであらう。」といふ言葉で結んでゐる。
日本を好戦国であると誹謗し、黄禍の権化であるかの如き叫びをあげた西洋諸国の誤れる考を是正し、日本の立場を了解せしめんが為に、所謂政府の使節も派遣せられてゐたのであるが、その余りにも西洋の歓心を求めんとする態度に慊らず思つたこともあらう、天心は、日本へ真の同情を集める道は日本文明の源泉を明かにするにあることに想到して、遥かなる異境に祖国の為に尽さんとする奉公の熱誠は凝つて終にこの一巻の書となつたのである。
本書は印度旅行中に稿を起して、殆ど参考すべき文献もなく書き上げられたのであるから、史実に関する不確実な点や、不適当な例を多少含んでゐるのは止むを得ないことであるが、よく時代の趨勢
を達観して「我が国民精神が無窮に生々発展すべき皇国の理想に基くことを明かにし、我が文化の独自性を」簡明に外国人に説き聞かせて、之が肯綮に中つてゐる所に、天心の非凡なる史眼の洞徹力を窺ひ知ることが出来るであらう。
現今世界の情勢に鑑みて、かゝる書が多数の欧米人に読まれることが望ましいと同時に、我々日本人が全日本歴史の大綱を通覧して、特に維新前後の非常時局を回想し、皇国の使命を自覚して、更に一層至誠奉公の念を鞏固ならしむることは、また大いに意義深いことであろう。岩波文庫にこれを収めて世に送る所以は此処に存してゐる。
本書の出版に至までには、歴史的事項に就いては東京高師の浅海正三氏並に渡辺貞雄氏より多大の御教示を賜はり、また校正に際しては渡辺貞雄山本彰両氏に非常な御骨折を煩はした。茲に深甚の感謝を捧げる次第である。
昭和十五年三月三十日 村岡博