Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.3.3訂正
2002.2.13

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大塩の乱関係論文集目次


『日 本 の 目 覚 め (抄)』
THE AWAKING OF JAPAN
その2

岡倉覚三 (天心 1862〜1913)
村岡 博訳(1895〜1946)

岩波書店 1940 より

◇禁転載◇


四 内部からの声 (2) 〔陽明学派〕

 第二の学派は第一と殆ど同時に起つたものであるが、その創始者の名王陽明の日本流の読方から陽明学派と呼ばれてゐる。この傑人は十六世紀の初期明朝の時代に支那に住んでゐた立派な学者であり同時に兵法家であつた。王陽明は南方支那の叛乱を平定した華々しい軍の間にも教を説くことを止めなかつた。王陽明の学は朱熹の新儒教を一歩進めたものであつたが、大体に於て朱熹の学説を認めてゐた。王陽明の主要な貢献はその知識の定義に存してゐた。王陽明の説ではすべて知識は行動に表はさなければ無益なものである〔知行合一説〕。知るとは行に現はすことである。徳は行為に顕はれる範囲に於てのみ真の徳である。全宇宙は絶えず更に高い発達の領域へと押寄せて、すべての物にこの堂々たる大進歩に加はることを要求してゐる。陽明学を真に理解せんとするには聖賢そのものの生活をして、人類の為に全力を尽して奉仕することが必要であつた。かくの如くして王陽明は儒教を再びその本来の領域即ち実践道徳の本領へ復らせたのであつた。

 王陽明の学説は支那自体には只一時的の影響しかなかつたやうに見えるが、日本人の心に対しては特別な魅力を持つてゐて、後に維新の大業に対する主要な誘因の一つとなつた。日本に於けるこの学派の首唱者の一人〔中江藤樹〕は琵琶湖地方の人々の道徳生活に強い印象を残し、その遺芳は今もなほ「活ける孔子」〔藤樹は近江聖人と称せらる。〕の思出として懐しまれてゐる。又他の一人〔熊沢蕃山〕は人々の利用厚生のために献身し、岡山地方の灌漑工事の功績に王陽明熱の過去を語る遺跡を残してゐる。然し彼は異端として苦しまねばならなかつた、そして配所に汚名を蒙つて死んだのであつた。

 日本の陽明学者は宇宙力を物力論的に考へる点に於て支那の学者よりも一歩進んてゐた。陽明学者は印度流の思想、特に禅宗の考へ方に偏好を有つてゐたので、変化といふ思想を強調した、その結果として、不思議にも現代の進化論者の抱いでゐる結論の多くのものと類似した結論に到達した。過去の仏陀は未来の仏陀ではなかつた、といふのは未来の仏陀は過去のものに更に何物かを加へなければならなかつたから。あらゆる新しい生活は、消滅しゆく数限りなき世界の騒然たる凄じい倒潰の響の中に、過去の崩壊物の上に建てられたのである。再生は別の平面に自己を如実に現はすことであつた。実(げ)に荘厳なるは変化である。実に美はしきは生死といふ大推移である。

 日本の陽明学者は龍の像を愛好した。諸君は龍を見たことがありますか。警戒して近づきなさい、若しその全身の姿を見る時は何人も生き存へることは出来ないから。東洋の龍は中世の想像による不無味な怪物ではなくて、強力と善性の守護神である。龍は変化の精であり、従つて生命それ自身の精である。我々は龍によつて最高の力即ち万物に遍く行き渡つてゐて、環境に従つて新しい姿を取れども決して決定的の形相となつて現はれないあの造物主を聯想する。龍は大神秘の権化である。近づき難い山の巌窟に身を潜め、或は千尋の海底にとぐろを巻き、徐ろに起き上つて活動する時機の到来を待つてゐる。暴風の雲にそのとぐろを解き、渦巻く激湍の暗黒にその鬣(たてがみ)を洗ふ。その爪は叉状の電光の間にあり、その鱗は雨に洗はれた松樹の肌に煌き始める。その声は、枯れ凋める森の木葉を散乱し新春を早める暴風の中に聞えて来る。龍の現はれるのは只消えるために現はれるやうなものである。龍は、生物が生気を失つた老廃物の集合を振払ふかの回復力の立派な象徴である。己の力によつて幾度もうねりにうねつて、暴風雨の中にその古い皮を脱落させる、そして暫し燦然たる鱗光に半身を現はしてゐる。龍は咽喉に触るまでは攻撃して来ないが、一度逆鱗に触れるとこの恐るべぎものと戯れる人は禍なる哉。

 龍は決して同一ではゐないといはれてゐる。何れの花か同一ならん。何れの生か同一ならん。陽明学者によれば、知の奥秘は変化が物に課した仮面の背後に透徹することであつた。所謂事実や形象は真の生活を下に潜めてゐる単なる附随事件てあつた。陽明学者は好んで道教の「真の馬」の譬語を用ひてこれを説明した。世に伝ふる所によれば、昔支那の或る帝王が天下一の俊馬を得んことを望んだ、依つて王は、馬を相することに通暁してゐる伯楽に命じてこれを広く天下に探し求めしめた。暫く経て伯楽は帰つて来て、或る牧場の栗毛の牝馬は天下一品の俊馬であると王に奏上した。是に於て王はその馬を宮廷へ連れ帰るために財宝を携へさせて臣下を遣はした。然しその朝臣が伯楽の言つた場所へ行つて見ると栗毛の牝馬はゐないで黒葦毛の種馬がゐた。扨てこの馬を連れ帰つて見ると、これは麗しく逞しき逸物であることが分つた。本当の馬の目利きは真の馬を性別色彩の従属的特徴に優つた或る点に見ることが出来たのである。すべて真の知識についても亦正に斯くの如くであると陽明学者は言つた。

 御用学者達は陽明学派に対して彼等目身の新儒教の堕落として二重に敵意を抱いてゐた。陽明学者の目付役に対する恐怖は学説を公然攻撃せられるといふことよりも寧ろこの説を奉ずる者に懲罰を加へた陰険な意外な方法に存してゐた。

 然しながらそれにも拘らず、この新思想は検閲取締の比較的緩かであつた遠隔の諸藩ではぐくみ育てられて漸次その勢力を得るに至つた。薩摩、長州といへば現代日本の大政治家がすべてその出身である、この二国がこの学派の主な避難所であつたといふことは意味の深いことである。日清、日露の戦役にその名を揚げた陸海軍大将中の多くの人は青年時代を王陽明の主義によって教育せられたのであつた。危険の中にあつて平静を保ち、作戦に当つて機略縦横、常に臨機応変に敏なるは、全くこれが為である。日本が王政復古の沸き立つ騒擾の中に龍を認めたのは主として陽明学の普及に依るものである。伯楽の真の馬の如く旧日本の精神は幾世紀を経て添加増大したとはいへ、依然顕然として存してゐた。

 陽明学説の革命的性質の為、徳川政府はすべてのことが憂慮の因であつた。といふのはこの学徒は彼等の正義の観念の関するところ何物にも浚巡することはなかつたから。西暦千八百三十七年の大飢饉に大阪の町奉行がさしたる理由もなく人民に賑救することを拒んだ時、一門の門弟を率ゐて公然叛起したのは大阪の有名な陽明学者大塩であつた。大塩は城代の兵に向つて発砲して、饑餓に迫られてゐる人々にお上の蔵の貯蔵米を分配する間これを食ひ止めてゐて、後従容として死についたのであつた。彼の平素の心構は、興味深い哲学的の著作に於て「電光の如く打ち、雷の如く怖くあれ、然し空自身は常に高く澄み渡つてゐることを忘るゝ勿れ。」といつてゐる所に十分窺ひ知ることが出来る。


『日本の目覚め(抄)』目次/その1/その3

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