Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.3.3訂正
2002.2.20

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大塩の乱関係論文集目次


『日 本 の 目 覚 め (抄)』
THE AWAKING OF JAPAN
その3

岡倉覚三 (天心 1862〜1913)
村岡 博訳(1895〜1946)

岩波書店 1940 より

◇禁転載◇


四 内部からの声 (3) 〔国学派〕

 古学派の異説も陽明学派の雄渾な思想もそれだけでは維新を誘致するに至つた政治上の考は発達しなかつたであらう。畢竟此等の思想は儒教の分派に過ぎないのである。そして儒教は、社会の道徳生活が害はれることさへなければ、現在の権威に服従すべきことを命ずるものである。此の故を以て明の学者は満洲の統治に対して何等の抵抗をも試みなかつたのである。徳川の儒者がその学派の何たるを問はず、我国の政治組織に変革を起すことは夢想だにもしなかつたのはこれと同様な埋由によつてゐた。王陽明は行動するることを教へたが、何の為に、誰の為に行動すぺきかを教へなかつた。この欠陥を補ふことこそ国学派の使命であつた。

 国学派は異端学説ではなかつた、それ故に目付役から疑の眼を以て視られることは稀であつた。それどころか、徳川氏は自ら之を奨励した。その訳は国学が徳川氏の伝統的政策と調和してゐたことである。この運動は徳川治政の初期の頃、我が帝国の名門の家系の編纂〔寛永諸家系譜伝〕や徳川氏自身の名を高めた歴史の刊行と共に始まつたのである。その当時第一の学物の書いた一つの重要な歴史〔本朝通鑑〕は、御門は支那の聖人の後裔であることを証明せんとしてゐるので、儒教の古典主義に対する極端な屈従を証するものとして興味深いものである。然し十八世紀の初頃には言語学研究の方面で純然たる新しい見解が現はれて来た。契沖阿闍梨によつて唱導せられ、本居、春海の名著に至つで隆盛の極に達したこの運動は我国古来の詩歌と歴史に新生面を開いた。十八世紀末には考古学の研究が非常に盛んになつて、徳川政府や富裕な大名は珍本や美術に関する百般の刊行物の蒐輯を競つたものである。一方に於て、有名な鑑定家は奈良や京都の古寺の宝物を調査記録するやうに命ぜられた。かやうな事が相継いで起り、幾世紀にも亙つて過去の上に懸つてゐた帷は上げられたのである。これは実に日本の文芸復興時代であつた。

 歴史的知識の修得の結果は神道の復活となつた。この古代の祭式の純清は陸続として押寄せた大陸の影響の波の氾濫にあつて、終に殆ど全くその本来の性質を失つてしまつてゐた。九世紀には単なる秘密仏教の一派となり、神秘的象徴主義を楽しんでゐたが、十五世紀以後はその精神に於て全く新儒教的となり、道教の字宙観を受け入れた。然し古学の復興と共にこの異国的の要素を失ふに至つた。十九世紀の初めに明確な形質を与へられた神道は神代から伝はつてゐる往古の純潔を崇める一種の祖先崇拝の宗教である。神道は日本民族祖先伝来の理想を墨守することを致ヘる、即ち質樸誠実を教へ、御門の御手に伝へられてゐる先祖伝来の統治に服することを教ヘ、異国の征服物が未だ嘗て足を踏み入れたことのない清い神聖な祖先伝来の国土に身を捧げることを教へる。神道は日本が支那及び印度の理想に対する盲目的屈従から脱して、己を恃むことを要求した。

 歴史的精神は文学、美術、宗教の領域をも掠めて通り過ぎ終に侍の胸に達した。この時まで歴史的精神の影響は溌剌たるものではあつたが重要なものではなかつた。その表現が学者的であり、それ故に範囲が狭少であつた。この新しい教の民衆化は前世紀の初期の文人の著作の中に見られる。中にも詩人歴史家の頼山陽は一頭地を抜いてゐる。過去の十分な意味が若い侍や浪人の心に仄々と解り初めたのは山陽の明徹な書物からであつた。彼等の追憶は遠く遡つて、皇室の尊厳が忘れられ、菊花が足利の残酷な高慢の疾風にたへずして畏縮し、一方皇居そのものさへも誰一人その修理を引受ける程の忠勤を励む者なく、将軍の金色の屋形の見える所で荒廃してゐた昔の時代を回想した。月なき宵空に、独り淋しき杜鵑の如く、悲しき調を嘯いた或る孤独の勤皇の士の歌を読んで感泣するのであつた。


『日本の目覚め(抄)』目次/その2

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