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のち
山陽が千古の名編日本外史を編纂したのはそれから後のことであるが、全く
独力であれだけの大編を大成したのである。現代の学者振つた人は、大きな立
なら
派な本箱の中へ、金銀の本を列べて、キチンとして納まつて居るが、山陽は座
いりよう
敷へ蜘蛛の巣のやうに細い縄を掛けて、それへ沢山の書を挟んで置いて、入用
ひら
だとそれを取つて披いて見ては著作をした。一々本箱から本を出すのは面倒で
もあるし、手数がかゝるから、斯ういふことをしたのであらうが、如何にも書
物が活動してゐる。外国でも日本でも、活動をする人に限つて、書斎は乱脈に
なつてゐて、本などは無秩序のやうに置かれてある、けれども其の無秩序の中
ど こ
にチヤンと秩序もあり、索引がある、何所にどういふ書がある、何の本にどう
いふことが書いてあるといふことがチャンと頭の中に分つてゐる、それが本当
そ こ
の活動で、学者の学者たる所は其所にある。
扨いよ/\日本外史が出来上ると、知己の所へそれ/゛\贈つて批評を求め
たが、其の第一に贈つたのが誰かといふと大塩平八郎であつた。大塩平八郎は
天満与力で天保八年二月に一揆を起して大阪の町奉行に反抗をしたが、謀叛人
ではない、号を中斎といつて陽明学の大家で、洗心洞といふ塾を開いて大勢の
えら
門人を取立つて居たほどの豪い人物であつた。山陽とは非常に親しくして居た
が、其の親しくなつたに就ては面白い話がある。
平八郎は今述べたやうに天満与力で、今で云へば警察官か予審判事のやうな
を
職業であつた。或る時町奉行の高井山城守の役宅へ出て、銘々が印を書面に悖
す時に同僚の一人が印形を忘れて来て困つて居た、之を見て大塩が
いつ わすれ
「貴公は毎も印形を持つてお出でになるのに、今日に限つて何故お忘になつた」
と聴いた。
「イヤ取急いだものだから、つい忘れてござる、毎も首へ掛けて参るのでござ
るが……」
「アハヽヽヽヽ首などへ掛けて居られるから忘れるやうなことが出来る、以来
は心へ掛けてお出でなさい」
あじは
と云つた、実に味ふべき言葉である。之を伝へ聞いて山陽が、大塩の人物に惚
れ込んで兄弟のやうに交はつて居た、それゆゑ日本外史が出来ると第一に大塩
の許へ贈つた。
のち
スルと其の後奥州白河の城主松平越中守定信隠居して楽翁といふ、有名な学
つかひ
者であるが、此の人から使を以て外史を一部求められた。楽翁公は時の将軍十
一代家斉公の伯父に当る人で、田安中納言宗武の三男、幼名を賢丸といつて、
白河の松平家へ養子に行つたのであるが、年十九の時に老中になつたといふく
なだい
らゐの名代の賢人であつた。斯ういふ人から外史を求められたのは、山陽一代
の名誉であるといふので早速に献上した。此の時に添えた文章が日本外史の序
にも出てゐるが、中々の名文である。
あらは
其の後に至つて山陽は日本政記を著した。日本外史の方は歴史であるが、日
本政記の方は、日本歴代政治上の沿革を書いたものである。処が此の日本政記
を書いて居る中に病気になつた、熱も時々出るし咳が頻りに出る、それが段々
烈しくなつて来て血を吐くやうになつた、酒を好んで飲んだから、酒の為めで
よ
あらうといふので、盃を捨て専心治療をした、其の甲斐があつたので少し快く
なつた、快くなると筆を執つて稿を続ける。処が何しろ当時有名な学者であつ
た山陽が、病気だと聞いて見舞に来る客が毎日引きも切らずといふ有様であつ
た。之が為めに却つて山陽の病を重くするものばかりであつた。モウ其の頃に
は母親も歿して、誰も心配をする者がないから、山陽は病を押して日本政記の
稿を続けて居たのであるが、心底から心配をして見舞に来るものもあるが、中
には見舞に来て、心なく長く下らないことを悠々と喋舌つて帰つて行く者など
もある。是には流石の山陽も殆ど閉口をしてしまつた。
処が本当に病が瘉らないのに、無理をして起稿をしたから、此の頃では又々
悪くなつて来て、咳は頻りに出る、喀血をすることも度々であるから、門人達
も心配をして
いかゞ からだ
「先生、暫らく御静養なすつたら如何でございませうか、御身体が悪くなつて
どなた
は、折角の御著述も何にもなりませぬ、何誰も皆心配をして居られますから、
御休養をなすつて下さいまし」
いさ
と涙を流して諫めた。今までは門人達が静養を勧めても、強情を張つて筆を執
つてゐたが、いよ/\自分でも苦しくなつたと見えて
「それでは暫らく静養しやう」
おも
と云つて初めて床に就いた、処が病は重るばかりであつた。
ト天保の三年七月になると、一層病が重くなつた。門人達が相談をして、其
の頃名医といふ評判のある、今出川に住んで居る山岡道庵といふ人を迎へて診
察を請ふことになつた。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その83
幸田成友
『大塩平八郎』
その13
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