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遠寺の鐘がゴンゴーンと響いて来る。これぞ大塩平八郎が昔物語の名
残りの音なのだ。
西来寺の鐘の音が、今も昔と変らぬ響きを伝へて来ると、ここ津の私
の家の庭の枯葉が、しづ心なくかさかさと散る。遠い昔の事を想ふと、
一種の物悲しさが此の鐘の音に通ずる様に感ぜられ、自づと私は、天保
の昔、大塩が僧形に身を窶して、此の西来寺の庭に逃れ込んだといふ夕
まぐれを彷彿せざるを得ないのだ。………斯くも物悲しい西来寺の天保
時代を舞台として、江戸幕政の一弛緩期に於ける大阪方面を背景とした
大塩、落葉散る大和路をさ迷ふ大塩、懺悔謝罪に生きる大塩を描かんと
する無暴を敢へて許して戴きたい。
概して物語はディレッタンティズムに陥り易いものだ。事実をそのま
ま書かうとすれば、それだけ面白くなくなる。従つて虚構も甚だしい様
な事を、事実だとして済まし易くなる。私は此の「落葉記」を歴史物語
だとは言はないが、又単なるディレッタンティズムには終らせたくない
ものと努力してゐる。
歴史上の事実としては、大塩平八郎が乱後大阪を離れ、僧形になつて
伊勢の西来寺に忍び入つたといふ説は、定説とはなつて居ない。然し平
八郎が乱を起す前に来津の節、西来寺の真阿上人に面会して高説を聞い
たといふ事だけは「真阿上人伝」にある。しかも平八郎が乱後河内で行
方を晦まし、僧形になつて潜匿した事が事実なりとすれば、平八郎は真
阿上人に再会して身のふり方を上人に委さうと思ひ、西来寺に忍び入つ
たものとも考へられる。歴史書には、平八郎は捜索の厳重なる為に自殺
したと単に書いてあるだけで、其の何処で死んだとも書いてはゐない。
西来寺の真阿上人は、平八郎の来寺を知つて居たけれども、彼の剛腹で、
事を誤つた相を観破して、其の為に嫌つて故意に会はなかつたのだと私
は思ふ。平八郎が死を決したのは、それ以後の事であらう。即ち河内に
於て僧形になつて仏道に帰依せんものと上人の処へ出掛けて行つたのが、
会ふ事に失敗したので、其の為に遂に死を決意したものと思はれる。そ
れが事実とすれば、平八郎の河内から伊勢まで逃がれる途次の決意は、
実に堅いものであつたと思はざるを得ない。仏道に帰依するか、若しも
真阿上人が己を許さなければ死ぬまでだ、――とさう決意して居たもの
だと思はれる。
兎も角私は、西来寺に忍び入るに至つたまでの大塩を描かんとして居
る。才足らず、筆亦立たぬ私の戯曲、分に似合はぬ生意気な、と感ぜら
れることではあらうが、御容赦を乞ふ。
第一幕
第一場 町奉行所
第二場 町竝の家
第二幕
第一場 山村路
第二場 木津川路
第三幕
第一場 長野峠
第二場 西来寺
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西来寺
天台真盛宗
三重県津市
乙部寺町
窶(やつ)して
ディレッタ
ンティズム
芸術や学問
を趣味や道
楽として愛
好すること
真阿上人
(1786〜1859)
井形正寿
「大塩平八郎
終焉の地に
ついて」
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