場所は大阪町奉行所。中央に高段があつて、段上には凭机が置いてあ
り、左右には与力、同心の居座が据えてある。前は白洲にて後は幔幕
が張り繞らされ、厳しい奉行所の空気が漂うて居る。下手に奉行所く
ぐりがある。
時代は天保八年、太陰暦二月の頃、奉行所の外の景色は、ちらほら新
芽の木々が見られる。時刻は巳の刻。
下手より町の者三、四人奉行所の前に集つて来て、何かひそ/\と話
して居る。一人の男は町人風でさつぱりした紺着を着て居り、他の二
人は未だうら若い髪立ちの若衆である。
町人 おい若い衆さん。もうどうもかうもない。もうわしは糞つ腹が立
つて糞つ腹が立つて仕方がないのぢや。わし等は勿論、今の此の大阪
の町の人といふ町の人つたら、生きた心持もないのぢや、まつたく。
御奉行様だつて何だい。ふん、奉行だつて何だ。民の窮状も知らずに
見殺しにするため、余りにも無情な仕打ちぢやないか。わしに親と妻
子がなかつたら、今でも此の門を叩き破つて、奉行といふ奴に直訴の
文面を叩きつけてやるんだが。
若衆甲 尤も尤も、此の頃の衆といつたら死んだも同然、生きてるとも
思へません。米の値は高いし、食ふ米といふ食ふ米は尽き果てて、も
う死を待つ許りだといふのに、何といふ無慈悲な、もう、思つても口
惜しくつて、近頃の路傍を見て居ると、自然に涙がこぼれて来ます。
若衆乙 今日も今日とて、私は近くの原つぱに井戸水を飲まうとして居
る親と子を見ましたが、汚い水をがぶ/\飲んで命を繋がうとして居
る様子を見ると、いやもう涙が迫つて来て、ものも言へません。私等
の命も、結局あの様にして命を繋いで行かねばならぬかと思ふと、身
の毛がよだつて、恐ろしさやら口惜しさやらで、涙が流れる許りで御
座います。私が此の朋輩と此処へやつて来たのも、外でもありません。
私達は、貴方も御存じと思ひますが、あの洗心洞書院の門下生で、大
塩先生の命を受けまして、一寸奉行所の様子を見て来いとのこと、只
今やつて来たところです。
町人 ははあ、成程、大塩さんの御使命によつてか。成程、わしはずつ
と以前だつたが、悪い役人によつて、すんでの事で家も屋敷きも没収
されようとした時に、時の与力の大塩様に助けられた事がある。全く
大塩様は神様ぢや、神様ぢや。それに引き換へ、此の頃の役人の乱暴
無暴、数へ挙げたらきりがないわ。私腹を肥す為に汲々として、弱い
者と見れば家屋敷は無造作に没収する。わしはもうその時はも世の役
人には仏も神もないと思つて居たが、大塩後素様によつて助けられた
わしだ。それからといふもの、全く大塩様だけが世の救ひ主だと思つ
て、死すべき命を捧げようと思つて居たんぢやが、さうだ、よろしい、
若い衆、皆殿達の御使命は分つた。わしがむせつ腹抱えて奉行所の門
をつぶさうとまで思ふ心の中だ。まして慈悲深い憐れみ深い大塩様だ
もの。うーむ。(何か心に決する所ある様子。)
|