Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.7.16

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「大塩の乱関係論文集」目次


〔戯曲〕落葉記−大塩平八郎−

その10

奥山健三( 〜 1938)

『奥山健三遺文集』奥山健三君記念会編・刊 1939 所収

◇禁転載◇

第一幕
  第二場 町竝の家(2)
管理人註
   

  其の時、人々の騒がしい声が聞えて、だんだん其の声が近づいて来   る。鐘が夕闇を衝いてゴーンゴーンと淋しく響いて来る。人の声と   鐘の声はだん/\大きくなる許り、間もなく人の泣き叫ぶ声と乱打   の鐘の音は益々大きくなつて来る。 老婆 お弓や、いやに騒がしいが。何だえ。いやな事だね。(或る予感  に脅えてぶる/\身を震はす。) お弓 まあ何事が出来たのでせうか。まあ向ふに火が見えるわ。あつ火  事だ。(脅えて立ちすくむ。)   其の時、男女等 どーつとお弓の家の前を通る。ばたばたばた。男   女等避難民のわーつ、わーつの叫び。森部様の屋敷が火事だ。森部   様の屋敷から火が出たぞ。(男女達三十人許り上手の方へ続いて駈   けて行く。) お弓 おつ母さん。まあ森部様の御屋敷から火が出たつて。 老婆 えつ、森部様の御屋敷が、さうだらう。さうだらう。ほんとにな  あ。あれ程恨まれて居た森部様ぢやもの、これも当然の事と思はれる  ぞいな。(老婆西空を見る。) 避難民甲 (土橋の辺で屋敷の方を見て居る。)ああまた火が上つた。  面白い事ぢや。 避難民乙 あちらの大きな屋敷にも火が点いたさうだ。あの遠山主膳様  の邸にも火の手が挙つたさうだ。 避難民丙 あれが森部様の屋敷、あちらの方が遠山様のお屋敷やろ。よ  く燃えてるな。 避難民甲 一体どうしてあんなに森部様とか遠山様などのお屋敷から火  の手が挙つたんだらう。 避難民乙 ほんたうにどうして火が出たか不思議だが、揃ひも揃つて日  頃嫌はれて居た屋敷だけに。 避難民丙 あれを知らぬか。あれはどうやら怪火らしい。もうぢき森部  様とか嫌われものの大金持の屋敷きは焼け落ちる筈ぢや。 避難民甲 うん、さうか。これでいよ/\大塩様の御手によつて官米が  下されるといふ話ぢやないか。 避難民乙 いや、さう旨くも行くまい。 避難民丁 (下手より走り来り)おーい。皆の衆。もう直き町奉行所の  役人が見廻つて来るから危いぞ。早く逃げろ。危いよ……。早く逃げ  ろ。                  つか お弓 (今迄ぶる/\震へて居て)お母さん、如何しませう。危いけど、  まあどうしませう。(立ち迷ふ許り)。                 まど   両人確かと腕を握りしめて立ち迷ふ。その時一人の若侍、ひよろ/\   になつて逃れ来る。手には抜刀を提げて居る。抜刀を杖にしてよろ   めきつつお弓の家の中に入り来る。息せき切つて居る。髪は乱れ敞   衣敞袴。 若侍 おい婆さん。わわわし大塩様の配下だが、奉行所の奴等に追はれ  て居るんだ。一寸の間、かくまつて呉んな。後生だから御願ひだ。うー  ん。(右足を少し打ち痛めて居る様子) 老婆 (気を取り直して)おおまあ、それはそれはお困りぢやろ。見れ  ば大部お痛手の御様子ぢや。これ娘。此のお方を暫くお隠し申せ、何  処がいいぢやろいな。うんさうぢや/\。縁の下へでも隠れて居て貰  ひませう。それ早く/\。(懸命に若侍を低い縁の下へ押し入れる。  娘は震へて見て居る。) 若侍 いや忝けない。(暗い縁の下をぐんぐん葡つて行く。余程奥行き  があるらしい。真闇の中を蜘蛛の巣を払ひながら縁の下の奥に隠れる。) 老婆 まあ、これで安心ぢや。むさ苦しからうが暫く其処に隠れて居て  貰ひませう。おお桑原、桑原。 お弓 (益々恐ろしさの為に身を震はせ、ぢつと立つて居られぬ様子)                     ど う  可哀想なお侍!! どう、それにしても如何しませう。もうわわわた  しは生きて居る心持も致しませぬ。(すくんで了ふ。)       をのの 老婆 (身は震いて居るが、ぢつと気を落着けて居る。)いえ、いえ心  配する事はちつともありませぬ。罪のない妾等に奉行所の役人が危害  を加へるといふやうな筈はありませぬ。これ娘、気をしかと持つのぢ  や。お前がそんな気の弱い事を言ふと、妾までが生きた心持もありま  せぬぞえ。 お弓 わわわたくし達はどうしませう。(恐ろしさの為に眼には涙が一  杯でおろ/\声。)こここの暗い晩にきききつとお役人達に捕へられ  るんだわ。おつ母さん、では裏手へ逃げませう。暗さは暗し、行く道  とても分りませんが。(母をせき立てる。) 老婆 (もう正気も失つておろ/\する許り。)もうお役人様達に、と  ととらへられるならあのお侍さま達諸共。もうにに逃げる元気もあり  ませんぢや。悪道な、無慈悲な、捕へるなら、捕へて見るがよい。妾  の命の続く限りは斬つて斬つて斬りまくつてやるから。お弓、お前に  与へた懐剣、いざとなつたら親子諸共………。 お弓 おつ母さん、よよよつく分りました。痩せ衰へたりとも武士の娘、   い き  呼吸の通ふ中は極悪無道な悪役人衆を斬つて斬つて斬りまくりまする。 老婆 娘、よく言つた。それでこそ武士の娘、今でこそ零落はして居る  がもとはこれでも立派な武士の生れ。(親子両人覚悟を決めた様子。  最期の用意にと、ぶる/\震へる手で箪笥より両人懐剣を取り出す。)

   


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