Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.7.15

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「大塩の乱関係論文集」目次


〔戯曲〕落葉記−大塩平八郎−

その9

奥山健三( 〜 1938)

『奥山健三遺文集』奥山健三君記念会編・刊 1939 所収

◇禁転載◇

第一幕
  第二場 町竝の家(1)
管理人註
   

  汚い家々の立ち続いた町並。正面の五、六軒は全部傾いて満足な家   の軒はない。下手(左方)には、これまた今にも毀ち果てんとする   家々が不規則に並んで居る。遠くの方には、大きな武家の屋敷らし   い板塀と土蔵とが見える。正面の二軒の家は空家同様、奥が見られ   る。右方の家は笠と蓑とが懸つて居て鋤鎌が置かれ奥には柴が積ん   である。左方の家には相当顔立ちのよい老婆と娘とが表の縁先で憂   はしげに話して居る。上手には土橋があつて其の下を小川がちよろ   ちよろ流れ、橋の遠方には遠くの山と田畑が見える。田畑と言つて   も、もう何も耕作物は無い。    時は天保八年二月十九日の夕方。 老婆 お弓、隣りの爺さんと忰さんは昨日、町奉行所の役人が来て引つ  張つて行かれたさうぢやが、可哀さうに喜助さん親子まだ帰られぬか  い。 お弓 ええ、ほんたうに罪も何もない喜助さん親子を、まあ可哀想に、  連れて行つたまま帰さないと見えますね。 老婆 後で聞けば喜作さんがあの(声を低めて)森部三左衛門様のお蔵  からお米を盗んださうだとか。森部様は此の大阪切つての金持ちだか  ら、貧乏人の一升や二升のお米位どうとも呉れてやる事が出来るもの  を、何とかかんとかとあの息子さんの新助さんが難癖をつけて役人に  渡したのだと聞いて居ます。ほんたうに憎らしいのは新助さんぢや。  かう皆の人が大飢饉で困窮して居るのに、大金持の癖にびた一文も呉  れてもやらず、人の苦しむのを見て喜んで居る様な為体、金持ぢやと  思つて余りな仕打ち、わたしや口惜しうて口惜うて………。喜助さん  親子が可哀さうぢやないか、喃、娘。(袖でそつと涙を拭ふ。) お弓 ほんに憎らしいのは森部様、此の飢饉に際しても、一文も他人に  は与へぬといふ無慈悲、犬畜生にも劣つた奴、其の森部様の御子息の  新助さんが一昨日も無理な難題を言ひました。あんな犬畜生にも劣つ  た人に、「わしの妻になれ。さうしたらお前の好きな通りの事が出来  る」の、「それ許りか、お前一家の者全部が幸福になれる」のと、嫌  な事許りを仰せられます。妾は口惜しうて口惜しうて物をも言はず、  逃げて参りました。あんな時、喜作様でも居られたならうんと懲して  戴けるものをと、涙がひとりでに流れて参りましたわいなう。 老婆 うん、さうか、さうか。それでこそわしの娘ぢや。幾ら難渋して                   いのち  も、もう妾等親子も明日か明後日かの命と言つても、あのやうな犬畜  生にも劣つた人間のお情けには縋りませぬぞえ。よう言つてお呉れだ  つた。いざとなれば親子諸共死ぬ許り。可哀想なは、喜助さん親子と  おしんさん、おしんさんも此の飢饉で気が狂つて、何処をあてどなも                              あと  なく未だにさまよつていらつしやるか、行く方も知れず。其の後おし  んさんの夫の久兵衛さんが餓死して了はれる、もうどちらを見ても悲  しい話許り。 お弓 おつ母さん、だん/\日暮れて参りました。そして又嫌な夜がや  つて参りました。また此の夜にどなたが死んで行かれるやら。かう言  つて居る妾が明朝までには死んで居るかも知ませんけれど。 老婆 これ娘、嫌な気味悪い事を御言ひでない。 お弓 それにしても喜助さん親子の方はどうなされたので御座いませう  ね。 老婆 おお、いやな晩になつた。向ふの山には死の雲が漂つて居るやう  ぢや。阿弥陀様がもう近くへお迎ひに来て居て下さるかも知れぬ。南  無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。 お弓 まあ、おつ母さん。もうそんな事言ふのはよして下さい。もう涙  が一杯になつて自然に泣けて来る許りです。 老婆 年を取ると急に涙つぽくなつてな、自然に六字の名号が口から出  ますわい。 お弓 (独言のやうに)遠い向ふの山も薄れて、死の幕が下されたや  う………。ほんとにいやな晩だこと。

   


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