役人達全部で六名、土橋を渡つて上手へ行つて了ふ。お弓親子、や
つと胸撫で下して役人達の後姿を見送る。
老婆 ああやれ/\全く胸も晴れましたわい。全くもう死ぬ覚悟で居ま
したが、やれやれこれであのお侍もどうやら助かつたらしい。お侍様
つ。お侍様つ。
お弓 ほんとにおつ母さん、嬉しい事で御座います。
縁の下でぢつと隠れて居た若侍、役人共が全部向ふへ行つて了つた
のを見計らつて、老婆の声に葡つて出て来る。まだ役人は居はせぬ
かと周囲を窺ふ。
若侍 むー。苦しかつた。苦しかつた。どうも有難う御座つた。
老婆 まあ万事うまく行きました。ほんたうに妾や恐ろしくつて生きた
心持もしませなんだが、旨く言ひましたので幸ひ気付かれもせず、万
事都合よく行きました。若しあなたが見付け出されでもしたら、妾等
もろ
親子はあなた諸共死ぬ覚悟をして居りました。
お弓 まあ、ほんたうに旨く逃れる事が出来ましたわいな。これも全く
神様の御加護と思ひます。
若侍 誠に有難う御座つた。何とも御礼の申し上げやうもない御志、御
むせ
恩は決して忘れませぬ。これも全く神様の御加護と嬉し涙に咽んで居
るやうな次第で御座ります。
な り
老婆 ほんに嬉しや、したがその服装では余りに御気の毒、こゝに男の
着物がある程に、それを着さつしやるがよい。これ娘、此の御仁にお
とつつあまの着物がある程に、出して着せてやつて呉れぬかえ。
な り
お弓 あい。お侍様、其の服装では余りに御可哀さう。あの火事で火の
波、炎の海で焼けて了つた事と思はれます。(お弓箪笥から立派な絣
の着物とを取り出す。)
若侍 いや重ね重ねの御心使ひ、有難く存じまする。実は何を隠さう、
拙者は大塩先生輩下の者で稲垣といふ者で御座るが、むかむかつとあ
の御屋敷に火災を起させまして御座ります。あのやうな無慈悲な、大
飢饉にも鐚一文も出さぬ様な無慈悲な屋敷を焼いて、今路傍に困しん
で居る人々を救はうとしたので御座います。皆これも哀れな人々を思
しわざ
つての仕業、皆の人々はどう御思ひになつて居られるやら。(抜身の
刀をぴつたり鞘に納める。)
お弓 どうかお侍。その御召物、これなる着物とお着換へ召されて下さ
れませ。
若侍 これは千万片忝けない。(殆んど猛火に焼かれてびり/\になつ
た着物を脱ぎ捨て、新しい立派な紺絣の着物をお弓の打ち掛ける儘に
着換へる。)
お弓 これは立派な殿御様、父の衣類がよく似合ふで御座います。(お
弓、惚々と若侍を見上げる。)
老婆 ほんに見上げた男ぶりの殿御様。したが、あの御屋敷の火事は、
先刻も気味がよいわいなど言ひ乍ら、あの土橋の上で西の宮を眺めて
居た避難民が御座りました。
若侍 大塩先生も、もうかうなつたからには、この大阪の地にも居れま
せん。先生は大阪町奉行所に出仕せられ、建白書が拒絶せられてから
といふもの毎日毎晩、お考へになられましたが、遂に、かういふこと
になりましたからには、今晩にも大阪の地を離れむ御所存に御座りま
す。拙者も一刻も此の地を離れなければなりませぬ。拙者、一刻も猶
予はなりませぬから、これで御暇致さん所存に御座ります。
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