鈴鹿山脈中の長野峠は大和から伊勢へ入る主要な間道をなして居る。
鈴鹿峠と共に主なる伊勢路への通路である。舞台の正面には蓊欝た
る密林が繁茂して、昼さへ闇い山奥である。松の木に雑つて、処々
大きなの樹が延び上つて居る。そして根元には雑木が処嫌はず繁
茂して居り、枯散葉が其の地上をぎつしり埋めてゐるのであるが、
しめ
潤つた散葉はもう朽ち果てて了つて居る。風は相当あつて樹々の葉
は鳴り、天空を駆ける風の音がぴゆう/\と唸つて居る。峠の風の
日は、たださへ淋しいのに、一層の物凄さを加へて居る。何だか狐
狸、狼でも出て来さうな陰気な峠の奥である。時は天保八年二月下
旬、前場と同日。今の午後四時過ぎ。
右手(上手)より旅僧らしい男が爪先登りになつた峠を急ぎ足に
登つて来る。風が相当烈しい為、珠数を持つた左手で網代笠の縁を
抑へ、右手では杖を確かと握つて頼りとして居る。大塩は今やつと
此の長野峠へ辿り着いたのである。一陣の風がさつと上手の方から
吹き下す。
大塩 おう、寒い寒い。(一寸ち停まる。)今朝から、いや昨日からも
う何も食つて居ないせいか、馬鹿に寒さが身に泌みる。ううう。もう
儂は死にさうだ。(一歩踏み出したが、進む元気も無くなつて了つて、
傍らの雑木の枝に脚を引懸けて散葉の中に身を転がす。雑木の枝が僧
形の大塩の身を噛んで、墨染の衣の袖はびり\/と引き千切れる)うー
む。痛い、むむむ。
(やつと痛む身体を起して独り言のやうに、)あああ、儂はこのまま
死んで行くのかも知れぬ。(瞑黙して静かに合掌する。)思へば淋し
い生涯であつた。大阪町奉行所の与力を勤めて居たのは既に前生の夢
のやうだ。又洗心洞書院でいとしい弟子を教へたのも夢の様な気がす
る。一時の怒りから無分別な無茶をしたとは言ふものの、思へば弟子
達に、可哀想な目を見せさせたものであるわい。こ、この儂は何と言
ふ罪深い人間なのか。何といふ慈悲知らずの人間なのか。思へば木津
へ降りる山路で、せめてあの稲垣が生きて居て呉れると聞いたので、
急ぎ跡を追駈けたが、どうしたものか稲垣は杳として行方知れず。あ
の時の落胆、悲しさは何と言へばよいか。もう儂はそれからは、狂人
になつて了つた、腸が千切れさうぢや、思へば悲しい事許りが此の身
一つに押し寄せて来たのぢや。おお、あの稲垣はどうした事やら、彼
をあれまでに苦しめた此の身が厭はしくなる。わ、わしは何と言ふ…
……………。
(はら/\と涙を垂れる。涙に曇つた眼で西方をきつと見る。)可哀
想な稲垣、どうか、許して呉れ。儂はかうして手を合はせて拝む。ど
んなに打つて呉れてもよい。わ、わしの様なこんな人間が師であらう
か。犬畜生にも劣つた奴、こんな奴は、早くくたばつて了つた方がよ
いのぢや。そ、それにしても、かうしてのめ/\と生きて居るのも、
稲垣、お前に会はうと思へばこそ。(七転八倒、散落葉の上を気狂ひ
のやうになつて叫ぶ。起ち上つて西方の空を眺めて夢遊病者のやうに
彷ふ。)
おつ、おー、わしは仏ぢや、おー、お前は稲、稲垣行之進、むー、
いいながき。仏ぢや、餓鬼ぢや、いや/\亡者ぢや。ははははは。お
お、風が風が吹く。儂は、おい稲垣、仏になるのぢや、仏になるぞ。
どうぢや、擲つなら擲つて、儂は必度もう死ぬ。いや/\真阿上人様
は死ねとは言はぬ。死んではならぬ。おおさうだ、死んで何に何にな
るか、此の大塩が死ぬものか、死なぬ、死んではならぬ。さうだ、さ
うだ、稲、稲垣、どうか追つて来て呉れ、よいか、真阿上人様が居ら
れる。上人様にお縋り申したら、儂はほんとに剃髪して僧になる事が
出来る。さうだ、多くの哀れな子弟共の菩提を葬ふのが此の大塩のつ
とめか。それにしても上人様は前の様に心よく会つて呉れるであらう
か。悟入された上人様だもの、会つて呉れぬといふ筈はない。仏の御
光を仰がせて頂いたら、此の大塩、もうそれで息絶えて了つてもよい。
ああああ稲、稲垣は何処だ。風、風が奪ひ去つたか。むー、さては幻
影、不可思議なる事、これより上人様に御縋り申さう、其の他にわし
は生きて行く可き道はない。(立ち停つてきつと決意した大塩は、吹
き荒ぶ風に抗して行く手の方を眺め遣る。風は衣を翻し高い音を立て
て、杖を持つて立つ大塩を吹き掠める。)
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