Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.7.26

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「大塩の乱関係論文集」目次


〔戯曲〕落葉記−大塩平八郎−

その19

奥山健三( 〜 1938)

『奥山健三遺文集』奥山健三君記念会編・刊 1939 所収

◇禁転載◇

第三幕
  第一場 長野峠(2)
管理人註
   

  樹々の枝葉は大きく揺れて、高い風の音のみが聞える。其の時下手   の方から風に雑つて人声が聞えて来る。大塩ははつとして来る。大   塩ははつとして雑木の後に身を屈めて伏す。   人声、あああひどい風になりやがつた。淋しい峠ぢや、ううう、ぶ   る/\/\。寒い、何と寒い日だ。   大塩は風の音に雑つて来る人声にぢつと耳を澄して聴き入る。緊張   して居るが力無く落葉の上に身体を横にして居る。だん/\人声が   近づいて来る。声の主は二人らしい。 商人風の役人伊藤 ほんたうに淋しい峠だ。狐や狸が今にも出て来さう  に思はれる。うーぶる/\加藤氏、拙者は大塩奴はもう此の長野峠を  越えたと思ふがどうで御座らうか。 加藤 左様、あの木津川堤の辺で聞いた所では爺奴、此の路を教へたの  が一刻前だとぬかしたから、事によるともう大塩は此の峠を越して居  るかも知れぬて、厄介な事だ。今日こそ彼奴を召捕つて大きな手柄も  挙げられさうと思はれたのに、兎に角にも先に逃がしたのは残念だつ  た。山を伝つて逃げ、而も此の峠を拙者共よりも先へ越したとは無念  千万、然し仮りに早く峠を越えたとしても、さう遠くへは行つて居ま  い。直ぐ様追ひ駈けようでは御座らぬか。 伊藤 又々急いで駈けねばならぬのか、此の峠を越えたらもう伊勢に入  る。さうなれば幾分探索も楽となるで御座らう。それにしても此の峠  の淋しさ、風が木をざはつかせやがるが、何だか薄気味悪くて仕方が  御座らぬ。わつつつつつ。(吃驚して一歩退く。) 加藤 伊藤氏、気を確かに御持ちなされ。何事も風の仕業で御座らう。 伊藤 ああ、驚いた、驚いた。いや/\さうで御座らぬ。今何か動いた  のは何であつたか、ああ桑原、桑原。確かに妖怪変化の類、狐か狸か、  う、桑原、桑原。う、身震ひがしますわい。(恐怖に陥つて五六歩小  走りに走り出す。) 加藤 あ、何だかさう言へば拙者も気味が悪くて仕方がない。ううう、  ぶる/\。桑原桑原、かう言ふ峠は拙者も知らぬわ。黒い物が動くと  は、正しく妖怪変化の類か。わつ、こりや気味が悪くて堪らぬ、堪ら  ぬ。(伊藤の跡を追つて加藤も駈け出す。) 両人 かう言ふ処は走つて逃げるに如かずだ。桑原、桑原。(手を挙げ  て両人脇をも見ずに上手へ去る。)   間もなく風の為に揺れ動く雑木の蔭から、大塩は身を起して衣の裾   を抑へて立つて居る。 大塩 (独言)ああ危い所だつた。今此処を過ぎた二人の商人風の男は  役人だと見える。危険千万な事だ。此処はかうして無事に越す事が出  来たとしても、此の後何時何処で捕へられるとも分らない、迂闊には  伊勢路へ入る事は出来ぬ。(二人の役人が通り過ぎた行方を見ながら  呆然と立つて居る。)   うん、総て役人の手に捕へられるも、その手をのがれるも運命とい  ふものだ。全しわ、わしは役人の手に捕へられるのは真阿上人様に会  つてからの後であつて欲しい。上人様に会ふまではどうしても逃げて  逃げ了せて見せる。剃髪して世の人の冥福を祈るが、此の大塩の生き  永らふ可き道だもの、若しもあの役人に捕まつたとしても、上人様に  会ふ迄は、血路を開いて逃げ延びるまでだ。可哀想ながら彼奴等如き  の一人や二人、斬つて斬り捨てんのみのこと。むー、どうにかなれ。  上人様の御志に従つて、此の大塩は後生の冥福をも祈らう。又我が身  をも斬つて捨てむ。さあ、一刻もぐず/\して居る可き時ではないわ。  彼奴等如き何程の事があらうか、ずつと後から蹤いて行きますわい。   西来寺へと急ぐ大塩は、急に勇気を出して杖を取り、風吹き下す峠   を一歩一歩と登つて行く。風にざはめく樹々の鳴りが物凄く耳に響   く。其の音に雑つて一歩一歩進み遠ざかり行く大塩の念仏の声が聞   えて来る。それも間もなく遠ざかり行き、只後には深山に風が吹き   通ふ許り。

   
 


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