Я[大塩の乱 資料館]Я
2012.7.10

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「大塩の乱関係論文集」目次


〔戯曲〕落葉記−大塩平八郎−

その4

奥山健三( 〜 1938)

『奥山健三遺文集』奥山健三君記念会編・刊 1939 所収

◇禁転載◇

第一幕
  第一場 町奉行所(3)
管理人註
   

  間もなく群下を従へた大阪町奉行跡部山城守良弼が、中央の唐紙の   奥よりしづ/\と現れる。威儀を正せる与力、同心、先づ左右に分   れて席に着く。山城守は中央の座に着いて、前に据ゑられた二人の   親子をぐつと見据ゑる。先に奥へ入つた役人再び現れ、親子を縛つ   た捕縛を解いてやる。親子両人奉行の前に膝をついて平伏する。涙   が止めどもなく流れ、こみ上げる水鼻をすゝつて居る。息子の慟哭   特に甚だし。然し甲斐なしと覚つて間もなく泣き止む。 山城守 如何に両人、只今より上の御裁き申し付ける。してそち達二人、  名は何と申すか。 親父 は、はい。私共は小川村の喜助と申す親子で御座います。これな  るは私の倅、喜作と申しまする。は、はい。 山城守 してその罪状は、当今世の中騒がしく相成り、民の窮乏見るに  堪へぬと聞くが、そち達親子も、貧故の罪と心得るがどうぢや。 喜助 は、はい。米泥棒の罪にて引き出されて御座います。は、はい。 喜作 (涙を抑へて)その米泥棒と申すのも、こ、この忰私がやつた事             かゝはり  で、親父様にはちつとも関係のないこと、早く私も縛つて親父様をお  放ち下さいまするやう、平にお願ひ致しまする。思へば私も廿と三、  今日が今日まで人様の物に手を掛けるといふやうな大それた事は致し  ませなんだが、昨年来の飢饉の状は申すもおろか、近郷近在は言ふ迄  もなく、飢え死に、のたれ死にする者数も切らず、米の値段は暴騰し  て、食ふ米といふは更になく、私共も家財全部は売り払つて食ふ米に  代へて居ましたが、家財には限りのあるもの、遂にそれも尽き果てて  は……大それた……(再び涙ぐむ)これを申すも涙の種、まあ、お聞  き届け下さりませ。   私の母御となる人は、既に持病の病のため、一昨年此の方、病の床  に臥したまま、暑い寒いも夏冬と、幸か不幸か看病の甲斐あつて、最  近にし少しくよくなつたかと、此の親父様と喜び居りましたその時は、  まだ細い煙も立てて居りましたれど、家財には限りのあるもの、いつ  の間にかそれも無くなつて了ひ、遂にはその日その日にも困る身にな  つて了ひましたので御座います。これ許りはと思つた病人の夜着まで  も、遂には売り払つて了ひました心の中を御察し下さりませ。それか  らといふものは、まるで火の消えたやうな哀れな生活をして参りまし  たので御座います。それどころか遂には、おお、忘れも致しませぬ。  昨年天保七年の飢饉の叫喚の真最中、夕暮遠寺の鐘の鳴り響く頃、母  様は六十三歳を末期として、哀れなる自害をして果てまして御座いま  す。おお……。(両人泣きてしばし頭も上げやらず。)そ、その日が  日まで、何故に母の看病致して居たのやら、これも母の良くなる楽し  い日を見るが為とは言ひながら、申すも涙が出る許り、母の遺せし遺  書を見るなれば、「長らく看護して下さつたる永々の御志、無下に背  くも不本意ながら、私故の貧、それに今年は未曾有の飢饉とやら、私  如き者がのめのめと此の家に居るため要らぬ苦労を掛けまする。私如  き者は死んだ方が世の為、人の為になりまするから、一刻も早い方が  よかつたなれど、今ここに自害して果てまする。永々の御厄介、死ん  であの世から御詫び申し述べまする。」とありました。

   


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