Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.4.28

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次/史料集目次


『大坂町奉行与力史料図録』(抄)

大野 正義

大西経子(発行) 1987 より


禁転載

はじめに (2)

 田坂直次郎著『務書』は、既に知られている多くの『勤書(つとめがき)』と違って「御用留」的なものである。幸田成友博士が採録し『大阪市史』の中で紹介したところの『町奉行所旧記』中の各種『勤書』は、おおむね与力衆の分掌事務に関するマニュアル的なものである。『勤書』と標記されていなくて、何々役勤方覚、何々役方覚、役儀何々取扱覚、等々違った表現であっても、内容的には所掌事務に係る業務要領であり事務必携である。とはいえ、若干の御用留的なものもあり、その他貴重な記録類も数多く含まれていて与力衆の執務内容を知る上で極めて重要である。にもかかわらず、本書『務書』の意義も小さくないはずである。一人の与力の公職生活面の人生をタテに編年体で記録しているので、幸田博士紹介の各種史料とは、かなり違った味わいがあるのではないか。

 徳川慶喜の大坂城退去に伴なう混乱で多くの史料が散逸し、大阪の郷土史の空白部分を惜しむ声が高い。この点で田坂直次郎著『務書』が寄与するところが少なからずある。他の史料では見かけない新事実については、その箇所に簡単な注釈を加えておいた。影印を主にして釈文と注釈を示してあるので、釈文のフォームや誤りについてはあまり気にしていない。影印によって修正していただけると思うからである。このようなやり方は筆者の浅学非力をさらけ出すが、利用者にとって史料の孫引きとならないことへの配慮の方が重要であろう。旧与力衆が明治新政府の末端行政機構に組み込まれていく過程など、極めてリアルであり与刀衆の不安な心理状態もひしひしと感じる。ドラマとしても読めるのではないか。

 『務書」等は著者直次郎の子の早川董幸の許で早川家文書と一緒になり、董幸の長女大西初枝(早川家の祭祀継承者)の管理するところとなって、いったん大西家文書となり、更に大西初枝の長女で早川家の祭祀を継承した早川操さん(医師)の管理するところとなり、早川操さんが武藤医師と結婚したことに伴ない現在では京都市の武藤家文書となっている。早川董幸は元枚方町長(大正九年九月〜昭和二年四月)を勤めたこともあり、実の父は田坂直次郎である。そして父の兄に当る早川伝三郎の養子となったわけである。董幸の長女初枝の嫁ぎ先の大西家は、門真一番上村の菊亭家(清華)御家領の庄屋の家系である。大西初枝の夫寿之の父大西仙治郎は菊亭家の青士として、皇女和宮の関東下向に際しては菊亭実順の従者の一貫として随行している(絵符残存)。

 筆者が『務書』等と接することができたのは、武藤操医師の兄嫁に当たる大西経子さんが、門真市市史編纂室主催の古文書学習会(講師・筆者)に参加されたご縁による。この古文書学習会は昭租五十四年七月以来、参加者の所蔵する文書をテキストに七年間も続き、その間に『野口家文書、大塩事件関係史料集』の発刊に貢献したこともあった。『務書』が新聞報道され研究者の注目するところとなったのは昭和五十六年十一月のことである。大阪府誕生前後のいくつかの新事実を明らかにした貴重なものということで郷土史研究家をはじめ多くの人々から刊行を催促されながら今日まで遅れた。

 田坂直次郎の辞令集については、彼の公職生活をたどっていくには最も基礎的なものであるから収載した。一人の与力に係わる辞令がこれだけまとまっている例が他にあるのだろうか。お頭の町奉行(西)が江戸に出府中で不在の場合など、他の町奉行(東)から辞令(辞令CEFG)を交付されているのには新鮮な印象を受ける。若干欠落したものがあるとしてもこれだけの点数があれば、与力衆研究の指標機能や尺度効果が期待されないか。従来からよく知られている各年度の『御役録』で知り得る以上の情報が伝わってくるのである。

 与力衆の所掌事務において、やたらに兼務発令が多いことは『御役録』 等でも知り得るが、直次郎への発令形式をみていると与力衆の分掌事務についての従来のイメージはかなり変更を余儀なくされる。それは、柔軟性と流動性を特徴とする組織実態が鮮明にうかがえるからである。職制分課と分掌事務に人間がタテ割りに配属されているのではなく、いうなれば複眼的な組織管理といえようか。固定した一対一対応の定数管理とはかけ離れている。各時代における職制分課変遷の研究などでは、全く新たな視点を必要とする。今日の役所や民間会社のタテ割り組織のイメージで理解すると、とんでもない間違いをおかす。

 事務分掌を詳細に明文化し、そこに人間を固定してはりつけると職制分課ごとに隙間が出来て「俺の係の仕事と違う」という論理で仕事の押しつけ合いも起り、弊害もまことに大きい。現実に発生している新事態とそれに柔軟に対応していくという面で、硬直した職制分課では対応しきれないことが多い。このような縄張り根性のマイナス面は、田坂直次郎への発令内容をみていると全く感じとれない。それどころか、今日タテ割り組織の弊害を補うために提唱されているプロジェクトチームのようなものは、とっくの昔に実行済なのである。特命事項も臨時的組織に組み入れることも、突発的に発生した新らしい仕事への対応も、実にスムーズに対処していけるような辞令内容となっている。いつの時代の与力衆の職制分課はこれこれであった、などというような従来の研究では全く不充分である。マルチ人間によるマルチ的対応には驚くばかりである。何々掛りは人数が少ないので当分仮掛りを申しつけるとか、ある掛りを申しつけた上で他の何々役とよく相談して仕事をするようにとか、此頃何々方面で米価について人心が動揺しているので早々彼地へ出張し取締るようにとか、さまざまである。今日の官公庁での発令形式もそのようにすれば企画室の庁内調整担当者は大たすかりである。筆者もそれには随分苦労させられた憶えがある。

 次に系図や親類書、由緒書、過去帳等についていえば各々の固有名詞の個体識別効果、人物比定機能を持つことはもちろん、執筆者と同番の与力衆をはじめ、向組の与力衆をも含めた親族姻族関係の情報量が豊富なので他の諸研究への波及効果も期待されるであろう。特に人物や事件を研究する場合、固定した測量起点を多く提供しておくことの意義はあるはずだ。

 与力組屋敷の建絵図二点は新発見の史料である。田坂直次郎著『目標山(めじるしやま)御台場并胸壁火薬庫縮図』も新発見の史料である、他に類例がない。目標山の方は元治元年四月六日付の辞令「大坂其外海岸御台場築造御用取扱掛申付」(辞令番号41、松平大隅守発令)に伴うもので、本来の設計図は別にあって、同書はそれの写しであり担当与力の業務遂行上のマニュアルでもあろう。この種の軍事施設は外敵用というよりも国内戦用が主目的で、西国大藩の蒸汽船による兵力輸送を警戒したものであろう。

 雑多な史料のように見えても、田坂家文書中の明治初期の諸文書の中には高く評価すべき史料が含まれている。中でも四月十七日付文書の内容には興味がそそられる。初期大阪府の未整備な状況を示す注目すべき史料である。

 大西経子さんが私のすすめに従い本書の発行を決意し編集を依頼されたのは六年も前のことである。土曜日や日曜日に少しずつ調査し原稿化したので今日まで大変長期間に及んでしまった。原稿のフォームがバラバラなのはそのせいであるが、今更それを矯正するパワーはとても出てこない。影印と釈文とを同頁に配しているので、とりたてて凡例を示す必要もなかろうと横着をきめ込んでいる。釈文中のサイドラインは影印での文字の抹消部分であり、破線は部分的な貼紙修正の個所を示している。

 本書のように特異な内容の本は一般の市販になじまないので、大西経子さんの意思決定と御援助そして武藤操さんのご理解とご協力とが無ければ世に出る機会は皆無である。特に、史料収集段階から発刊に至るまで何度もくじけていた私をはげましゴールに運んだのは大西経子さんである。おかげで編者として完成の喜びを享有することができたが、感謝の念は筆紙に尽くし難い。ご迷惑ばかりをおかけしているにもかかわらず、寛いお心を以てお許し下さったことに、まことに恐縮している。


『大坂町奉行与力史料図録』(抄) 目次/はじめに(1)

大塩の乱関係史料集目次/論文集目次

玄関へ