Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.4.27

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『大坂町奉行与力史料図録』(抄)

大野 正義

大西経子(発行) 1987 より


禁転載

はじめに (1)

 幕府の職制の中では重要でかつ必要と認められた各ポストには与力や同心が付属している。御留守居与力とか大御番与力等の類である。大坂においても定番や町奉行には与力や同心が付属しており、堺や京都の町奉行も同様である。本書で紹介するのはその内大坂町奉行の与力である。

 与力衆は今日的常識で推し計ると理解困難な存在といえよう。将軍家との関係濃密度でいえば譜代や二半場よりも下位で無席のお抱場であり、一代限りの採用にすぎない。事実上の世襲と変りがないとはいいながらも、建前としては単なる就職にすぎず新規採用をくり返す形式をふんでいる。番代と称して単に入れ替りをしているにすぎない。旗本が町奉行というお役に就任したことに伴なう業務執行の必要のために現地採用されるのが与力衆である。したがって任命権者も出先機関の町奉行であり、将軍決裁の採用辞令ではない。であるからお目見以下は当然であり下級武士そのものである。とはいえ、諸組の与力衆は出勤時の服装に上下(かみしも)を着るので(幕末の町方与力衆は羽織袴着用で勤役)「上下役」と称し、それ以下の役上下、羽織袴役などよりはましな方とされている。同じお目見以下で、しかも禄高が与力衆より低くても御譜代衆には身分に禄がついているが、与力衆は職に禄がついておりこの点で決定的に異なっている。したがって与力衆は相続対象となる身分、世禄を有しない。主君から御恩を蒙り、家臣としてそれに御奉公するという図式であれば身分と禄米を前提にお役目が義務として発生するわけだが、与力衆の場合は職務が先行する。慶応三年八月の 御改革で「譜代」となるまでは、単に職務のために御採用になったのだから、いわば今日のサラリーマンの採用形式と同じであって、職責の対価、提供した労役の対価として現米八十石が給与された。旗本衆の場合はお役御免になっても役知が無くなるだけで身分と禄俸に変化はない。改易にならない限り大丈夫である。しかし与力衆は与力でなくなれば現米八十石は給与されない。与力衆の受給権は父が隠居したので子が家督を相続するとか、当主が死んだので筋目の者が跡目相続をするというような形式で相続対象となる概念には当てはまらないものである。そこで当主の生存中にその仕事を交替し継承するという番代の形式をとり、事実上の世襲に等しくしている。当主の生存中に番代を願い出ておいたのに、お頭の旗本衆が御転役となり、そのどさくさのために後任の町奉行から番代を許されるという事態(三世早川友右衛門から四世早川綱右衛門への番代)も実際には起っている。これなどは本来的に不都合で認められるべきではないはずの建前ながら、この時代(延享の頃)には既にルーズになっていて事実上は容認されている。とはいえ由緒書の中で公然と認めることには抵抗感があったのだろう、番代の日付の時点では既に新任のお頭(発令権者である町奉行)に変っているにもかかわらず、前任の町奉行の勤役中に番代が許されたかのように記載して、その不整合性を指摘され訂正を求められているケースも出ている。

 およそ武士の禄賜というものは家という非人格的抽象概念につくものではなく人間についているものである。だからこそ子が家督相続(父隠居)したり跡目相続(父死亡)することが可能なわけである。ところが与力衆のように職についている禄俸は相続しようにも相続不可能なわけである。父に代って子がその仕事に就職した場合にのみ初めて禄米の受給権が発生する。現代の会社員と同じような原理とはそのような意味である。このような与力の採用形式は、その執務内容についての当時の価値評価の低さと深く関係している。当時の与力衆は不浄役人として蔑まれる存在であった。百姓や町人で悪いことをした連中を捕えるというような行為は、武家社会の価値観では武士の誇りを著しく傷つけた。岡本良一著『大塩平八郎』の付録に収められている『咬菜秘記』(国立国会図書館蔵)の中において平八郎の言動が記述されている。その中で彼は「私義ハ与力の身分にて下賤の者故、上の御容顔を奉拝候事も出来ぬ身の上に候得共」と発言している。与力衆の自己認識はおよそそのようなものであった。

 このような与力衆も、代々同じ仕事に従事しているので職務には極めて精通し、たまたま町奉行というお役目を仰付られて赴任してくる旗本衆は彼等に依存することが大きかった。新規採用をくり返しているとはいいながらも事実上は世襲しているので、大坂に居付の地役人として庶民からみれば雲の上の存在のごとく見えた。民政に熟達した官僚としてのその職務権限は広く重い。騎乗の士として扱われ、与力何騎と数えられる。

 このように与力衆は職務遂行上は高度な専門性と熟練を要し、難易度の面でも極めて困難な職務であるにもかかわらず差別され格付が低い。そこでそのバランスをとるために経済的な面での待遇は極めて良いのである。少しかけ離れた比較となるかも知れないが、今日でも人の嫌がる職種の賃金は抜群に高いという現象を見受ける。賃金を高くすることでバランスをとっているのである。現米八十石というのは諸藩の藩士と比べても一流といえる待遇である。しかし、与力衆全体に給与するための財源、共同采地はあっても、個人に帰属する采地ではない。現米八十石の収益権のみ保障されている。

 ようするに与力衆を現代的にいえば、大商社が外国の出張所で現地採用した従業員というイメージになろうか。本社採用の正社員でないから転勤(すなわち転役)も無ければ、転役に伴う出世もない。町奉行となって赴任してくるお頭(かしら)の旗本衆とはまるで月とスッポンの違いがあった。

 大塩平八郎もこのような劣等感にさいなまれた人物である。彼の劣等感は与力衆一般を理解するための重要視点となる。事務屋として行政実務には従事できるが、政治を動かせたり意思決定には参画できないのである。現代流にいえば仕事のよくできるアルバイト職員が凡暗な正社員に対してもどかしさを感じるのとよく似ている。その結果、自己顕示の究極行動としてあのように過激な存在証明行動に及んだともいえよう。だからといって平八郎が有能な行政マンであったというわけではない。経済官僚として政策誘導に優れた手腕を発揮したとか、都市整備行政で実績を残したとでもいうのなら高く評価できるが、彼の三大功績なるものをみる限り仕事人間としては凡庸と断言できる。怪しげな民間土俗信仰の関係者をつかまえてキリシタン衆を検挙したかのごとく手柄顔する程度の男である。

 平八郎に比べれば、少し時代は後ではあるが、早川伝三郎や田坂直次郎は与力の分際をよくわきまえた従順有能なテクノクラートである。直次郎は物価行政にも土木建築行政にも優れた業績を残している。与力衆の地味な行政実務の実態を研究するうえで、彼等は良き史料を残してくれている。与力衆について先発の諸研究が進んでいるとしても、与力衆の個人情報をこれだけ多量に提供すれば、いささかの付加価値が出てくるのではなかろうか。


坂本鉉之助「咬菜秘記」その2


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