『大塩研究 第29号』1991.3 より
以上で西田家文書(分家)の紹介に一応の区切りをつけたい。西田家文書は大塩格之助の周辺人脈解明にいささか寄与するにとどまらず、与力史料としても貴重なものだから、多くのページをさいてしまった。なお、寺院から西田家宛に提出した借金の証文については視点を新たに論じたいので、後に紹介する。
残念ながら大塩格之助に関する史科は、ついに見つからなかった。しかし、西田青太夫の実父と養父に関する史料は第一級のものである。それ以外でも、たとえば沢田家文書中の西田家「親類書」の考証において、同書の発行人である西田八郎右衛門は、まちがいなく七代目当
主の八郎右衛門であることが判る。なぜなら妻の知恵の記載に「松平石見守殿御組与力山本長石衛門妹」とあるからである。松平石見守が大坂の西町奉行に補職されていた期間は、天明七年十月から寛政九年三月までであり、これに対し、七代目西田八郎右衛門が番代りしたのが天明三年二月七日で、退番したのが寛政九年四月十五日だからである。西町奉行松平貴弘が在任中で、さらに、七代目西田八郎右衛門が与力であった期間中の卯年というのは寛政七年以外に該当がない。したがってこの親類書の発信人は七代目西田八郎右衛門なのである。なお、この時代の西組与力に山本長右衛門がいることは、他の複数の史料で実証できる。
さらに、西田八郎右衛門の姉「杜野女」の記載においても「山口丹波守組与力黒崎保太郎母」とあるが、大坂の東町奉行山口丹波守直清の在任期間は、寛政七年七月から寛政十年二月の死亡時点までだから、その間の卯年は寛政七年以外になく、同年の十二月に発行された文書
であることに何ら疑問はない。
西田家文書中、以上に紹介したもの以外には、西田正頼死去に伴う『死去御届』(下書き)、西田千之丞が由比又太郎の伯母縫を嫁に迎えるに際しての『御相談書』、明治十年十二月十一日付西田正頼の『葬儀次第』、慶応元年版の『御役録』、『代言人マニュアル』(仮称)等が残されているが翻刻は省略したい。
なお、明治期の借金の証文が多数残されているが、これらについても節を改めて紹介する。最後に今迄紹介した史料をもとに、「西田家歴世表」をまとめてみた。
歴世 | 本名 | 通称名等 | 出生 | 見習 | 番代 | 退番 | 死亡 | 戒名 | 妻 | 実父 | 実母 |
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1 | 伊兵衛 | 寛永3寅3月 | 寛文元丑5月 | 寛文11亥4月5日 | |||||||
2 | 清兵衛 | 寛文元丑 | 元禄5申2月 | 元禄9子7月2日 | |||||||
3 | 郷右衛門 | 元禄5申2月 | 元禄9子3月 | 元禄9子3月25日 | |||||||
4 | 清太夫 | 元禄9子5月 | 享保21辰2月 | 元文5申9月19日 | 芳樹院宗林日敷 | 香樹院貞林日実 | 本通院妙恵日深 | ||||
5 | 次郎右衛門 | 享保21辰2月29日 | 宝暦8寅11月朔日 | 安永4未3月26日 | 本珠院精光日耀 | 芳種院 清太夫 | 香樹院貞林日実 | ||||
6 | 頼年 | 喜右衛門 | 寛延2巳4月2日 | 宝暦8寅11月朔日 | 天明3卯2月朔日 | 寛政7卯8月13日 | 照浄院最正坊日具 | 寂止院妙円日融 | 常光院妙精日円 | ||
7 | 安永5申3月8日 | 天明3卯2月7日 | 寛政9巳4月15日 | 文政8酉7月27日 | 演暢院宗義日実 | ||||||
8 | 文次郎 八郎右衛門 | 寛政9巳2月15日 | 寛政9巳4月15日 | 文政6未7月22日 | 文政6未7月22日 | 本地院宗遠日寿 | |||||
9 | 主税 | (清) 青太夫 | 寛政9巳 | 文化10酉2月19日 | 文政6未9月15日 | 安政5午5月29日 62歳 | 勇智院頼次日正 | 青山伊賀守家来 森田九右衛門娘 勇猛院妙頼日行 | 演暢院 八郎右衛門 | ||
10 | 清三郎 寿三郎 清兵衛 | 明治38巳10月27日 | 清寿院頼勝日常 | 諦聴院妙証日念 25歳 | 勇智院 青太夫主税 | 勇猛院妙頼日行 | |||||
分家 初代 | 正頼 | 新之助 千之丞 | 文政9戌9月2日 | 天保10亥3月19日 | 弘化3年5月24日 別規御抱入 | 明治10丑12月11日 | 本行院正頼日仁 | 初妻、本種院妙縁日起 後妻、ぬい(本正院) | 勇智院 青太夫主税 | ||
分家 2代 | 龍之助 龍太良 | 安政5午8月20日 | 大正11年8月21日 | 本成院究意日等居士 | 西田寿三郎 |