Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.8.24

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大塩の乱関係論文集目次


「大坂町奉行与力西田家文書等について

―与力史料評価視点の転換を求めて―」

その13

大野 正義

『大塩研究 第29号』1991.3 より


禁転載

五、西田家文書 (9)

 以上で西田家文書(分家)の紹介に一応の区切りをつけたい。西田家文書は大塩格之助の周辺人脈解明にいささか寄与するにとどまらず、与力史料としても貴重なものだから、多くのページをさいてしまった。なお、寺院から西田家宛に提出した借金の証文については視点を新たに論じたいので、後に紹介する。

 残念ながら大塩格之助に関する史科は、ついに見つからなかった。しかし、西田青太夫の実父と養父に関する史料は第一級のものである。それ以外でも、たとえば沢田家文書中の西田家「親類書」の考証において、同書の発行人である西田八郎右衛門は、まちがいなく七代目当 主の八郎右衛門であることが判る。なぜなら妻の知恵の記載に「松平石見守殿御組与力山本長石衛門妹」とあるからである。松平石見守が大坂の西町奉行に補職されていた期間は、天明七年十月から寛政九年三月までであり、これに対し、七代目西田八郎右衛門が番代りしたのが天明三年二月七日で、退番したのが寛政九年四月十五日だからである。西町奉行松平貴弘が在任中で、さらに、七代目西田八郎右衛門が与力であった期間中の卯年というのは寛政七年以外に該当がない。したがってこの親類書の発信人は七代目西田八郎右衛門なのである。なお、この時代の西組与力に山本長右衛門がいることは、他の複数の史料で実証できる。

 さらに、西田八郎右衛門の姉「杜野女」の記載においても「山口丹波守組与力黒崎保太郎母」とあるが、大坂の東町奉行山口丹波守直清の在任期間は、寛政七年七月から寛政十年二月の死亡時点までだから、その間の卯年は寛政七年以外になく、同年の十二月に発行された文書 であることに何ら疑問はない。

 西田家文書中、以上に紹介したもの以外には、西田正頼死去に伴う『死去御届』(下書き)、西田千之丞が由比又太郎の伯母縫を嫁に迎えるに際しての『御相談書』、明治十年十二月十一日付西田正頼の『葬儀次第』、慶応元年版の『御役録』、『代言人マニュアル』(仮称)等が残されているが翻刻は省略したい。

 なお、明治期の借金の証文が多数残されているが、これらについても節を改めて紹介する。最後に今迄紹介した史料をもとに、「西田家歴世表」をまとめてみた。

西田家歴世表

歴世本名通称名等出生見習番代退番死亡戒名実父実母
伊兵衛寛永3寅3月寛文元丑5月寛文11亥4月5日
清兵衛寛文元丑元禄5申2月元禄9子7月2日
郷右衛門元禄5申2月元禄9子3月元禄9子3月25日
清太夫元禄9子5月享保21辰2月元文5申9月19日芳樹院宗林日敷香樹院貞林日実 本通院妙恵日深
次郎右衛門享保21辰2月29日宝暦8寅11月朔日安永4未3月26日本珠院精光日耀芳種院
清太夫
香樹院貞林日実
頼年喜右衛門寛延2巳4月2日宝暦8寅11月朔日天明3卯2月朔日寛政7卯8月13日照浄院最正坊日具寂止院妙円日融常光院妙精日円
八郎右衛門安永5申3月8日天明3卯2月7日寛政9巳4月15日文政8酉7月27日演暢院宗義日実
文次郎
八郎右衛門
寛政9巳2月15日寛政9巳4月15日文政6未7月22日文政6未7月22日本地院宗遠日寿
主税(清)
青太夫
寛政9巳文化10酉2月19日文政6未9月15日安政5午5月29日
  62歳
勇智院頼次日正青山伊賀守家来
森田九右衛門娘
勇猛院妙頼日行
演暢院
  八郎右衛門
10清三郎
寿三郎
清兵衛
明治38巳10月27日清寿院頼勝日常諦聴院妙証日念
  25歳
勇智院
  青太夫主税
勇猛院妙頼日行
分家
初代
正頼新之助
千之丞
文政9戌9月2日天保10亥3月19日弘化3年5月24日
別規御抱入
明治10丑12月11日本行院正頼日仁初妻、本種院妙縁日起
後妻、ぬい(本正院)
勇智院
  青太夫主税
分家
2代
龍三郎龍之助
龍太良
安政5午8月20日   大正11年8月21日本成院究意日等居士 西田寿三郎


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