Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.8.31

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大塩の乱関係論文集目次


「大坂町奉行与力西田家文書等について

―与力史料評価視点の転換を求めて―」

その14

大野 正義

『大塩研究 第29号』1991.3 より


禁転載

六、罪刑法定主義の確立 (1)

 わが国における罪刑法定主義思想の発達過程で、俗にいう『御定書百箇条』(公事方御定書)の編纂は画期的なものだったといえる。先例集的性格が濃厚で、確固とした法理論によりまとめられたものでなく、また「中分」を規定するものとされ、さらにトップシークレットの秘密法典ではあるものの、その意義は大きい。しかし、これだけで罪刑法定主義思想が完全に確立した、というわけではない。この法思想はその後の幾多の試練をくぐり抜ける中で発達をとげたのである。本稿で強調したいのは、大塩事件こそがわが国における罪刑法定主義思想確立のうえで、最大の試練だったということである。

 あるいは、『御定書百箇条』の法理が最初にして最大の危機に陥ったのが大塩事件だったといいかえてもよい。にもかかわらず、罪刑法定主義の思想はその試練に耐え、それを克服したのである。

 史料館叢書9『大塩平八郎一件書留』に収載の「第三部、別紙之分大坂一件書物」中、四の内で中表紙の標題が次のようになっている史料は注目に値する。特に法制史研究者にとっては刮目すべき史料であろう。*1

 右の史料がそうであるが、特に注目されるのはその冒頭の部分である。その内でも特に重要な記述個所について、いささか長くなるが抜すい引用しよう。

(前略)武具を用ひ市中放火、及乱妨候次第、全叛賊之所業ニ付、主媒并一味之もの親族共続合等相糺、夫々御仕置被仰付候筋ニも可有之哉と取調候処、慶安之度、由井正雪徒党を企候一件之儀、其節之書留評定所并町奉行所等ニも相見不申、世上申伝ニは右正雪、丸橋忠也父母妻悴兄弟伯父其外一味之もの、父母は傑、思也甥同人召仕一味之もの兄弟は死刑ニ被処候由ニ候得共、慥成書留等無之、年古キ儀ニ候上は、猥ニ取用候も如何可有之、殊、科条類典之内、主殺之もの親族共も先年は厳刑ニ被行候趣之先例相見候処、御定書御渡以後は、主殺之悴ニ面も父之依科、遠嶋ニ相成、其余之親族は御仕置之不被及御沙汰儀ニ而(中略)、旁御定書御渡以前之例等、縦令書留有之候とも猥ニ難引用、一体御仕置筋之儀ハ其時世ニ随ひ懲悪之ため御威光を被示候営第一ニ而、国民治り方之儀は、衆心二不悖 御仁風普く行渡候様之御趣意勿論之儀ニ候処、先達而大坂表江被差遣候評定所留役共申聞候趣ニ而は、一件引合を始、一味之もの親族共一同深く 御威光を恐入、兼而 御仁徳之程奉感伏罷在候趣ニ相聞、斯迄 御威光を恐入、最早騒動以来一ケ年も相立、先ヅ人気も卿安堵いたし候折柄、幼稚之もの迄多人数死・遠嶋其外続合之厚簿ニ寄、夫々御仕置被 仰付候ハゝ、当人は素之儀、親族ニ不限及見聞候もの等、案外之事ニ心得、驚動いたし、不穏次第ニ至間敷とも難申、尤先違而御下ケ被成候大坂町奉行申上候両組与力・同心内平八郎其外之もの親族共異変之砌、右奉行ニ随身役所向警固又ハ賊徒召捕方格別出精相働、不動之もの并女子等銘々親類之不届恐入、一同神妙ニ相慎罷在候ニ付、右等之弁別を以、御沙汰之次第、右奉行相願候趣も畢寛前書治り方之意味合粗勘弁いたし申上候義ニ而、無余儀事情ニ有之、乍去、右組之ものニ限御沙汰之品相分候而ハ、百姓・町人共気請ニ拘り候筋ニ付、右奉行申上候趣ハ可被及御沙汰儀ニ無之候処、元来彼是之論ニもたらさるものニ使上ハ重而謀計之憂を量、血統を断絶いたし候ニも及申間敷、併一通り之徒党とも訳違ひ候儀ニ付、以後御取締之ため、平八郎悴 弓大郎ハ幼椎之ものニ候得共、主謀之血統ニ付死罪、平八郎妾并一味之もの悴之分ハ一同遠嶋被 仰付、主媒其外一味之もの共親族共は前書取調の趣を以、都而御仕置之不被及御沙汰方弥 御仁徳ニ奉帰伏、却而御取締附可申哉と奉存候、依之、別紙父之科よつて御仕置申付候もの之犠、伺書并主謀一味之もの親族名前書とも相添、此段相伺申候、以上


管理人註
*1 p273〜274


三浦周行『法制史の研究』(抄)


「大坂町奉行与力西田家文書等について」
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