『大塩研究 第29号』1991.3 より
与力衆がマネービルに熱心であった、という視点をあえて提示したい。幕末期までの西田家文書の中には、西田家が貸した金の証文は一通しか検出されない。西田きぬ子さんによれば数軒のお寺が連名で差し出した借金の 証文がもう一通はあったはずだ、というがお目にかかっていない。とにかくその一通の証文は次の通りである。
一札之事(縦二七・五cm、横三〇・五cm) 一 銀六百目也 但利足 月五朱 右之銀子御取次ヲ以慥ニ受取、 借用申処実正也然ル上者返済 之儀当七月無相違返弁可申候 為御日借用一札仍而如件 文久元酉年 六月 吉岡院(印) 西田御氏 御取次
ごく平凡な借金の証文である。当初は全く軽視していたが、西田きぬ子さんが「明治以後の雑多な文書なら、まだこんなに多く残っています。しかし、多くはふすまの裏張り等に用いたのであまり残っていませんが」といいつつ出された文書の中に、明治初期の貸付に伴う借金証文群を見るに及んで全く考えが変ってしまった。
金銭的には恵まれていたとされる与力衆は、ただ入ってくる金を使うだけで資金運用することがなかったのか、という疑問である。かなりの金銭消費をくり返しても、それは全く一方通行で職掌に伴う副収入が次々と入金するので全く問題が無かったのだろうか。他のケースだが、ごく普通の村方文書を見ていても、旧家といわれるような大きな家では、必ずといってよい程、ひんぱんに資金運用をしていた痕跡が残存している。専門の金融業を営んでいたかといえば、必ずしもそうではなく、酒造株を持っていたり、古着屋までやっていたり、いわば多角経営のケースが多い。確かに村方では豪農がそのよ
うなことをしていても、与力衆がそのような真似をするものだろうか、という疑問もなくはない。しかし、大塩平八郎についていえば、彼は不正金融(不正無尽)の調査をするなど、金融システムの専門家である。与力衆は司法官僚として民事法知識を持ち、経済官僚としては経済メカニズムに行攻介入している。田坂直次郎が書き残した『務書』の中には米価取締りの記録まで残っている。だとすれば、与力衆に資金運用利殖のセンスがあって何の不思議もない。後に紹介するように少なくとも史料から判断する限り、西田、八田、大塩の各史料にはマネービルを窺わせるものがある。だとすれば、この三軒だけ
が資金運用していた例外で、他の与力衆の金銭消費は全く単純な一方通行にすぎなかったのか。いやしくも武士たる者として、利殖などということは考えるはずもなく、たまたま、余裕のある資金を困っている人に融通してやっただけのことで、当該与力衆の習慣的なものだったわけでない、ましてや、与力衆全体が資金運用・利殖の習慣をもっていたとまで断言するのは行き過ぎである。というべきなのか、数々の疑問もなくはない。しかし、与力史料を評価する視点を大きく転換すると、それまでとは違った全く新しい視界が広がってくる。
明治七年の文書といえば近世文書に含めてもよいかも知れないが、西田家文書の多数の金銭関係文書の中に、明治七年の借金証文が十二通も集中していることに注目したい。明治政府は前年の明治六年七月には地租改正条例を布告し、人民への収奪を強化していた時期である。日付の最も早い文書を代表に選び紹介しよう。