『大塩研究 第29号』1991.3 より
右の記述趣旨を大雑把にまとめてみると、およそ次のようになろうか。
武器を用いて市中に放火乱妨に及んだこの事件は、全く叛賊の所業だから、主媒並びに一味の者の親族共や続合等をただして、夫々御仕置しようとも考えた。由井正雪の事件では一味の父母は磔、兄弟は死刑、に処したともいう。しかし、その確かな書類は残っていない。また、大昔の先例を準用するについては疑問がある。あるじ殺しについては過去において厳刑に処したこともあるが、御定書がおりてきてからは、主殺しの悴であっても遠嶋にしかなっていない。それ以外の親族は処刑対象ではない。たとえ御定書以前の先例が書類で残っていたとしても、準用し難い。そもそも御仕置なるものは、お上の御威光を示すことが一番大切である。先般、評定所の書記官を大坂に派遣して事件を調べたところ、一味の者の親族達は深く御威光に恐れ入り、かねてから幕府の政治に感謝しているともいう。また、事件以来一ケ年も過ぎて人心も落ちついている。このような折柄、幼い者まで多数を死刑にしたり、程度に応じて厳しく罰したりすれば、当人はもとより、親族に限らず見聞きした全ての人々が予想外の出来事にショックを受け、不穏当な事態を招くとも限らない。大坂町奉行がいうには、一味の親族達であっても、事件の際には奉行に対して忠実な行動をとったという。賊徒召捕に活躍し、老人など働けない者や女性達も、それぞれ親類の不届に恐れ入って神妙に謹慎している。町奉行からの申し出も、親族はほぼ勘弁してやれとの趣旨である。とはいっても、何分重大事件のことだから、今後の取締りのためにも弓太郎は幼少だが死罪とし、一味の息子達には遠嶋を仰付ける。そして、主謀その外一味の者の親族共は、全て処分なしとしたい。そうすれば御仁徳に帰伏し、かえって取締りの効果も出てくる。以上のように取り計らってよいかどうか、主謀一味の者の親族の名前書を添えてお伺い申し上げる。
いささか乱暴ではあるが、大概以上の通りである。
幕府の裁判は原則として先例主義である。しかし、明文化された法規がなければ厳密な意味で罪刑法定主義思想が認められないというのはいかがなものであろうか。永長に亘る先例主義は慣習法を安定させるが、いかに公布していないとはいえ、先例をもとに整理編纂し明文化した『御定書百筒条』は、罪刑法定主義の画期であったといえよう。また、この法典は、主として庶民を対象としたものであり、お上をわずらわせて裁きを受けるケースである。武士階級のように自らを規律して、お上をわずらわすことなく、自分で、自分を裁く能力を持つ支配階級は、ある種の意味では超法規的存在なのだから、大塩事件の適用法規として若干疑問がある、と反論されるかも知れない。しかし、個々の条文の適用技術はともかく、『御定書百箇条』の立法主旨は庶民たると武士たるとを問わず、普遍的な法思想として作用している。先に長々と引用した評定所一座の伺書の中でも、「御定書御渡以後は」とその法理を強調している。
その後の経過を見れば明らかなように、西田家をはじめその他の親族には何のお咎めも無かった。子孫の西田きぬ子さんによれば、「大塩の乱の時の西田家は大変だったと聞いています。男達が江戸へ唐丸籠で送られて行ったが、結局、何のお咎めも無く、皆が大変喜んだとのことです」という。
明治二十四年、滋賀県の大津で護衛中の津田巡査が、来日中のロシア皇太子(後の皇帝ニコライ二世)を負傷させた事件は大津事件として有名である。その裁判で政府は皇族に対する犯罪と同様に扱い死刑に処すよう、司法側に求めた。それに対し大審院長児島惟謙が抵抗し無期徒刑とし、司法構の独立を守ったどいう事件である。大切なことは、その際に司法側のバックボーンとなった思想が罪刑法定主義の法思想だったということである。そして、このような法思想は、この事件の際に突如として確立したものでなく、先行する大塩事件御仕置の法思想にまで逆のぼれることを強調したい。
明治以降の日本が急速に近代化をとげて行ったことについては、江戸時代にその基本的な蓄積があったことの意義を強調する人が多い。それは自然科学の方面に限らず、整備された行政組織とその運用技術、あるいは人材等が大きい役割を果した、というのが筆者の意見である。
そのような流れの中で、罪刑法定主義の発達という視点からも大塩事件の御仕置は見直されてよい。
もとより、評定所一座の伺書を翻刻した国立史料館の業績は大きい。しかし、西田家『由緒書』の中にも、この法理を証明するものがあるのである。それを提示し、先発の業績につけ加えるのが本稿の主目的である。
分家の西田家は、青太夫主税の惣領千之丞正頼を初代とし今日迄繁栄している。千之丞作成の『由緒書』は先に紹介した通りだが、その中で大塩事件の御仕置での罪刑法定主義思想を立証する記載を次の通り再掲する。
私儀同組与力西田主税悴ニ而天保十亥年」三月十九日跡部能登守組与力見習申渡(中略)」
同年(弘化四年)五月廿四日水野若狭守組」之節父主税貞実相勤候依而同組与力明跡江」別規御抱入被 仰付(中略)」
祖父父私遠慮逼塞閉門等都而御咎之儀無御座候以上」
父青太夫が格之助の兄とされ、自分も格之助の甥といわれる存在でありながら、西田家は厳然と存在し続け、あまつさえ、事件の十年後に新しく与力の家を創立して二軒となり繁栄しているのである。大塩事件で東組の与力は、大塩、瀬田、小泉、大西の四軒が欠けた。その跡は八田、磯矢、丹羽、荻野の各与力衆が各々分家を創立している。しかし、そのタイミングでは西田家に適齢の男子がいないのと、事件の余熱がさめていないこともあって分家を創立できなかったことは判る。しかし、それに続いて浅羽、田中、阿部(いずれも東組)が廃絶し、新しく与力の家を創設するチャンスが訪れる。やがてその経過の中で事件から十年後に至って西田家からの分家創立が実現したのである。この出来事は大塩事件の御仕置の性格を評価するうえで、絶対に見逃せない。「祖父父私遠慮逼塞閉門等都而御咎儀無御座候」の記述のもつ意義は大きい。なお、余談ながら筆者は「与力株」の成立は全く認め難いという意見である。