『大塩研究 第29号』1991.3 より
本照寺は大阪府八尾市黒谷六丁目七四番地にあり、住職は三田村宗鳳氏で第二十九世日宗上人と申しあげる。
当初は田坂家の菩提寺調査が目的で訪問したのであるが、ここで計らずも遇去帳および無縁墓地の中から東組与力の西田家の史料を見い出したのである。
大塩平八郎の養子格之助の実家である西田家研究は、平八郎周辺の人脈を解明するうえでも重要なはずだが、しかし、史料不足もあってあまり進んでいない。先発の研究では本誌第三号に収載の相蘇一弘氏の論文「沢田家文書について」が印象強く記憶に残っていた程度で、最新のものとしては『大塩平八郎一件書留』(史料館叢書)が出ている。後発の研究ではあるが、西田家研究にはいささかの付加価値がありそうだったので与力史料の調査範囲を田坂家にとどめず西田家にも拡大することにした。
『大阪府全志』には「谷町八丁目」の小見出しのところで「本照寺は同町の北部東側にあり、光要山と号し、日蓮宗本国寺末にして(中略)永禄元年四月二十八日日沾(にってん)の開創なり」とあり、元は大阪市南区谷町八丁目七−三にあった。しかし「郡市計画による地下鉄工事」(本照寺諸堂落慶記念誌)もあって、昭和四十三年五月、郊外の八尾市黒谷に移転した。
本照寺は昭和六年と八年に諸堂を焼失したせいか、過去帳以外の文書は残っておらず、与力衆研究のために近世史の研究者が訪ねたことはない。また、地元の郷土史家も他所から移ってきた寺ということで、全く注目してはいなかった。しかし、無いように見えてもあるのが史料である。過去帳と金石文に若干の史料が残っていた。