その8
三村清三郎編 (竹清 1876−1950)
『日本芸林叢書第8巻』六合社 1928 収録
天保五年正月四日附 平松楽斎宛 |
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改年之御慶、不可有尽期、愛度申納候、愈御安泰、被成御超歳、目出度御義、奉賀候次私義、無事加年仕候、乍憚得貴慮、思召可被下候、将又元旦口号二首、并今朝賦候一律、試筆、呈左右候、御一笑可被下候、猶期後音之時候、恐惶謹言、 甲午元且口号
風声一陣自天来。星眼蒼鷹既立苔。 |
案 此の手紙は天保五年甲午、 大塩平八郎四十二歳、平松健之 助四十三歳の時のものなり、平 松健之助、名は正愨字は子愿、 通称健之助後喜蔵と改む、三角 先生孫なる奥田恕堂門人にて、 後に猪飼敬所にも就かれし様な り、為人好事にて、文人墨客は 素より、芝居ものまでにも附合 たリ、家を至楽窩といひ、号を 楽斎といふ、侍読より郡奉行と なり、後には督学参謀に累進せ られし、嘉永五年正月二十六日 六十一歳にて歿し、仏眼寺に葬 る、法号文篤院楽斎日真居士、 とあれど墓には唯平松楽斎居士 墓とあつて、歿年月日を記すの み。 |
猶以余寒御珍嗇奉祈候、乍末筆、御家内様方へ、宜奉頼候、愚息も同時申上候、 |
案 軍中日記とは宮川夜話草 にいふ光明寺残篇にて、同書に、 結城上野入道か自筆軍中の日記に て、勅制軍法と標顕せり、近世水 戸黄門侯御尋問に依て、写しを献 じ、則参考太平記に、伊勢光明寺 の残篇と記し給ふ、此書全部有し を、惜哉、一代の住僧反古にせし 残り也と云、其時延経神主の改正 を得たり、水戸侯より紬二疋名酒 一樽を謝儀に給はりしとぞ、とあ り、光明寺は山田に在り、此の軍 中日記津藩翻刻は常の左り版に て、山田翻刻は石摺様にしたり、 元来蠹損をすきうつして摸刻せる に、摸刻本も糊気が多いと見え、 とかく蠹くひ本が多し、 案 藤堂数馬、斎藤拙堂、 川村竹坡 |
一 当十九日
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案 橋本忠兵衛の女みねを男格 之助に妻はす、みねは天保元年 より平八郎が養女としたりしと 云、格之助廿三歳、みねは十六 歳なり、これにつきていやな噂 を伝ふれども、大かた後におと しめしつくりことならむ。 |