Я[大塩の乱 資料館]Я
2011.5.1

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大塩の乱関係論文集目次


『大阪府誌 警察史』

その47

大阪府 1903 より


◇禁転載◇

養父の殺さるゝに抵抗せざりし者の仕置。  安永二年、大阪長堀茂左衛門町、兵助といへるもの、養父長左衛門を殺 し、附火致したる科を以つて、重追放に処せられき。是れ寛大の廃置は似 たりといへども、兵助は、敢て手を下したるに非らずして、主人伝吉とい へる者、兵助の愚直に乗じ、もし声を立つるに於いては、共に殺害す、と 威赫し、且、兵助の目を覚ましたるときは、既に長左衛門の眉間を、真木 割にて打割られ、数ケ所の手庇を負ひし後なるを以つて、如何に兵助が之 れに抗すとも、長左衛門の助命することなく、又、前後の弁もなく、之れ に従ひしものなり。元来、親殺、密夫をなして、実の夫を殺しゝ女等は、 磔せられ、但、実夫殺害を勧め、又は手伝をなしたる男は、獄門に処すと の掟なれども、兵助は、此の但書より其の罪軽きを以つて、死一等を減じ て此の刑に処せられしものなり。 乱暴者を殺しゝ者の仕置。  天明八年、大阪北久宝寺町五丁目、挿磨屋新兵衛といへるもの、酒狂人 弥兵衛の、抜刀して社務の人を追ひ散らし、町内を騒がせたるとき、之れ を取鎮めしは、其の当を得たるものなりと雖、彼れの刀脇差を取上げ、而 も打擲して、為に弥兵衛は、間も無く行倒れ果しを以つて、町奉行小田切 土佐守は、之れを遠島の刑に処せり。元来、人を殺せし者は、下手人たる べき規定なれども、新兵衛は、之れを殺さんとするの念ありしに非ず、余 人の難義.且、町家にては、孰も店を閉ぢ居れる有様、見るに忍びざるを 以つて、之れを取鎮めんとし、遂に事の行掛り上、茲に至るものなるを以 つてなり。 廻船荷物を盗取りし者の仕置。  大阪瀬戸物町、大津屋六兵衛の所有船々頭利右衛門といへるもの、享保 十二年八月、房州阪之下、岡本両村に於いて、両村名主と申合せ、廻米之 荷物を売払ひ、荷主には、船の難破と偽り、巧に舟の梶桁等を埋隠したる を以つて、磔の刑を宣告せられ、直ちに所刑せらるべき筈なれども、当地 は水夫の普く集合する所に非ずして、一般船頭を懲戒する能はざるを以つ て、特に浦賀港に於いて、之れを磔し、科書は岡本村に建札せられ、其の 他、岡本村名主治兵衛は、船頭を勧めて荷物を盗取りしとの廉を以つて同 罪に処せられ、阪ノ下村名主長兵衛も、亦、船頭より売払を依頼せられし 故を以つて、獄門に附せられ、其の他関係者一同、処刑せられき。


『大阪府誌 警察史』目次/その46/その48

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