Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.1.7

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」 その11

森 鴎外 (1862−1922)

『大塩平八郎・堺事件』
1940 岩波文庫 所収



   

十一、二月十九日後の一、信貴越 

 大坂兵燹(へいせん)の余焔が城内の篝火と共に闇を照し、番場の原には避難した病人産婦の呻吟を聞く二月十九日の夜、平野郷のとある森蔭に体を寄せ合つて寒さを凌いでゐる四人があつた。これは夜の明けぬ間に河内へ越さうとして、身も心も疲れ果て、最早一歩も進むことの出来なくなつた平八郎父子と瀬田、渡辺とである。

 四人は翌二十日に河内の界に入つて、食を求める外には人家に立ち寄らぬやうに心掛け、平野川に沿うて、間道を東へ急いだ。さて途中どこで夜を明かさうかと思つてゐるうち、夜なかから大風雨になつた。やうやう産土(うぶすな)の社を見付けて駈け込んでゐると、暫く物を案じてゐた渡辺が、突然もう此先きは歩けさうにないから、先生の手足纏にならぬやうにすると云つて、手早く脇差を抜いて腹に突き立てた。左の脇腹に三寸余り切先が這入つたので、所詮助からぬと見極めて、平八郎が介錯した。渡辺は色の白い、少し齒の出た、温順篤実な男で、年齡は僅に四十を越したばかりであつた。

 二十一日の暁になつても、大風雨は止みさうな気色もない。平八郎父子と瀬田とは、渡辺の死骸を跡に残して、産土の社を出た。土地の百姓が死骸を見出して訴へたのは、二十二日の事であつた。社のあつた所は河内国志紀郡田井中村である。

 三人は風雨を冒して、間道を東北の方向に進んだ。風雨はやうやう午頃に息んだが、肌まで濡れ通つて、寒さは身に染みる。辛うじて大和川の支流幾つかを渡つて、夜に入つて高安郡恩地村に着いた。さて例の通人家を避けて、籔陰の辻堂を捜し当てた。近辺から枯枝を集めて来て、おそるおそる焚火をしてゐると、瀬田が発熱して来た。いつも血色の悪い、蒼白い顔が、大酒をしたやうに暗赤色になつて持前の二皮目が血走つてゐる。平八郎父子が物を言ひ掛ければ、驚いたやうに返事をするが、其間々は焚火の前に蹲つて、現(うつヽ)とも夢とも分からなくなつてゐる。ここまで来る途中で、先生が寒からうと云つて、瀬田は自分の着てゐた羽織を脱いで平八郎に襲ねさせたので、誰よりも強く寒さに侵されたものだらう。平八郎は瀬田に、兎に角人家に立ち寄つて保養して跡から来るが好いと云つて、無理に田圃道を百姓家のある方へ往かせた。其後影を暫く見送つてゐた平八郎は、急に身を起して焚火を踏み消した。そして信貴越(しぎごえ)の方角を志して、格之助と一しよに、又間道を歩き出した。

 瀬田は頭がぼんやりして、体ぢゆうの脈が鼓を打つやうに耳に響く。狹い田の畔道(くろみち)を踏んで行くに、足がどこを踏んでゐるか感じが無い。動(やゝ)もすれば苅株の間の湿つた泥に足を踏み込む。やうやう一軒の百姓家の戸の隙から明かりのさしてゐるのにたどり着いて、瀬田ははつきりとした声で、暫く休息させて貰ひたいと云つた。雨戸を開けて顔を出したのは、四角な赭ら顔の爺いさんである。瀬田の様子をぢつと見てゐたが、思の外拒まうともせずに、囲炉裏の側に寄つて休めと云つた。婆あさんが草鞋を脱がせて、足を洗つてくれた。瀬田は火の側にメになるや否や、目を閉ぢてすぐに鼾をかき出した。其時爺いさんはそつと瀬田の顔に手を当てた。瀬田は知らずにゐた。爺いさんはその手を瀬田の腰の所に持つて往つて、脇差を抜き取つた。そしてそれを持つて、家を駈け出した。行燈の下にすわつてゐた婆あさんは、呆れて夫の跡を見送つた。

 瀬田は夢を見てゐる。松並木のどこまでも続いてゐる街道を、自分は力限駈けて行く。跡から大勢の人が追ひ掛けて来る。自分の身は非常に軽くて、殆鳥の飛ぶやうに駈ることが出来る。それに追ふものの足音が少しも遠ざからない。瀬田は自分の足の早いのに頗(すこぶる)満足して、只追ふものの足音の同じやうに近く聞えるのを不審に思つてゐる。足音は急調に鼓を打つ様に聞える。ふと気が附いて見ると、足音と思つたのは、自分の脈の響くのであつた。意識が次第に明瞭になると共に、瀬田は腰の物の亡くなつたのを知つた。そしてそれと同時に自分の境遇を不思議な程的確に判断することが出来た。

 瀬田は跳ね起きた。眩暈(めまひ)の起りさうなのを、出来るだけ意志を緊張してこらへた。そして前に爺いさんの出て行つた口から、同じやうに駈け出した。行燈の下の婆あさんは、又呆れてそれを見送つた。

 百姓家の裏に出て見ると、小道を隔てて孟宗竹の大籔がある。その奥を透かして見ると、高低種々の枝を出してゐる松の木がある。瀬田は堆く積もつた竹の葉を蹈んで、松の下に往つて懐を探つた。懐には偶然捕縄があつた。それを出してほぐして、低い枝に足を蹈み締めて、高い枝に投げ掛けた。そして罠を作つて自分の頸に掛けて、低い枝から飛び降りた。瀬田は二十五歳で、脇差を盗まれたために、見苦しい最後を遂げた。村役人を連れて帰つた爺いさんが、其夜の中に死骸を見付けて、二十二日に領主稲葉丹後守に届けた。

 平八郎は格之助の遅れ勝になるのを叱り励まして、二十二日の午後に大和の境に入つた。それから日暮に南畑(みなみはた)で格之助に色々な物を買はせて、身なりを整へて、駅のはづれにある寺に這入つた。暫くすると出て来て、「お前も頭を剃るのだ」と云つた。格之助は別に驚きもせず、連れられて這入つた。親子が僧形(そうぎやう)になつて、麻の衣を着て寺を出たのは、二十三日の明六つ頃であつた。

 寺にゐた間は平八郎が殆一言も物を言はなかつた。さて寺を出離れると、平八郎が突然云つた。

 「さあ、これから大阪に帰るのだ。」

 格之助も此詞には驚いた。「でも帰りましたら。」

 「好いから黙つて附いて来い。」

 平八郎は足の裏が燃えるやうに逃げて来た道を、渇したものが泉を求めて走るやうに引き返して行く。傍(はた)から見れば、その大阪へ帰らうとする念は一種の不可抗力のやうに平八郎の上に加はつてゐるらしい。格之助も寺で宵と暁とに温い粥を振舞はれてからは、霊薬を服したやうに元気を恢復して、もう遅れるやうな事はない。併し一歩々々危険な境に向つて進むのだと云ふ考が念頭を去らぬので、先に立つて行く養父の背を望んで、驚異の情の次第に加はるのを禁ずることが出来ない。


森鴎外「大塩平八郎」その10その12

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