Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.1.8

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」 その12

森 鴎外 (1862−1922)

『大塩平八郎・堺事件』
1940 岩波文庫 所収



   

十二、二月十九日後の二、美吉屋 

 大坂油懸町*1の、紀伊国橋(きのくにはし)を南へ渡つて東へ入る南側で、東から二軒目に美吉屋(みよしや)と云ふ手拭地の為入屋(しいれや)がある。主人五郎兵衛は六十二歳、妻つねは五十歳になつて、娘かつ、孫娘かくの外、家内に下男五人、下女一人を使つてゐる。上下十人暮しである。五郎兵衛は年来大塩家に出入して、勝手向の用を達したこともあるので、二月十九日に暴動のあつた後は、町奉行所の沙汰で町預(まちあづけ)になつてゐる。

 此美吉屋で二月二十四日の晩に、いつものやうに主人が勝手に寝て、家族や奉公人を二階と台所とに寝させてゐると、宵の五つ過に表の門を敲くものがある。主人が起きて誰だと問へば、備前島町河内屋八五郎の使だと云ふ。河内屋は兼て取引をしてゐる家なので、どんな用事があつて、夜に入つて人をよこしたかと訝りながら、庭へ降りて潜戸を開けた。

 戸があくとすぐに、衣の上に鼠色の木綿合羽をはおつた僧侶が二人つと這入つて、低い声に力を入れて、早くその戸を締めろと指図した。驚きながら見れば、二人共僧形に不似合な脇差を左の手に持つてゐる。五郎兵衛はがたがた震へて、返事もせず、身動きもしない。先に這入つた年上の僧が目食はせをすると、跡から這入つた若い僧が五郎兵衛を押し除けて戸締をした。

 二人は縁に腰を掛けて、草鞋の紐を解き始めた。五郎兵衛はそれを見てゐるうちに、再び驚いた。髮をおろして相好(さうがう)は変つてゐても、大塩親子だと分かつたからである。「や。大塩様ではございませんか。」「名なんぞを言ふな」と、平八郎が叱るやうに云つた。

 二人は默つて奥へ通るので、五郎兵衛は先に立つて、納戸の小部屋に案内した。五郎兵衛が、「どうなさる思召か」と問ふと、平八郎は只「当分厄介になる」とだけ云つた。

 陰謀の首領をかくまふと云ふことが、容易ならぬ罪になるとは、五郎兵衛もすぐに思つた。併し平八郎の言ふことは、年来暗示のやうに此爺いさんの心の上に働く習慣になつてゐるので、ことわることは所詮出来ない。其上親子が放さずに持つてゐる脇差も、それとなく威嚇の功を奏してゐる。五郎兵衛は只二人を留めて置いて、若し人に知られるなら、それが一刻も遅く、一日も遅いやうにと、禍殃を未来に推し遣る工夫をするより外ない。そこで小部屋の襖をぴつたり締め切つて、女房にだけわけを話し、奉公人に知らせぬやうに、食事を調へて運ぶことにした。

 一日立つ。二日立つ。いつは立ち退いてくれるかと、老人夫婦は客の様子を覗つてゐるが、平八郎は落ち着き払つてゐる。心安い人が来ては奥の間へ通ることもあるので、襖一重の先にお尋者を置くのが心配に堪へない。幸に美吉屋の家には、坤(ひつじさる)の隅に離座敷がある。周囲(まはり)は小庭になつてゐて、母屋との間には、小さい戸口の附いた板塀がある。それから今一つすぐに往来に出られる口が、表口から西に当る路地に附いてゐる。此離座敷から家族も出入せぬから、奉公人に知られる虞もない。そこで五郎兵衛は平八郎父子を夜中にそこへ移した。そして日々飯米を測つて勝手へ出す時、紙袋に取り分け、味噌、塩、香の物などを添へて、五郎兵衛が手づから持ち運んだ。それを親子炭火で自炊するのである。

 兔角するうちに三月になつて、美吉屋にも奉公人の出代(でかはり)があつた。その時女中の一人が平野郷の宿元に帰つてこんな話をした。美吉屋では不思議に米が多くいる。老人夫婦が毎日米を取り分けて置くのを、奉公人は神様に供へるのだらうと云つてゐるが、それにしてもおさがりが少しも無いと云ふのである。

 平野郷は城代土井の領分八万石の内一万石の土地で、七名家と云ふ土着のものが支配してゐる。其中の末吉平左衛門、中瀬九郎兵衛の二人が、美吉屋から帰つた女中の話を聞いて、郷の陣屋に訴へた。陣屋に詰めてゐる家来が土井に上申した。土井が立入与力(たちいりよりき)内山彦次郎に美吉屋五郎兵衛を取り調べることを命じた。立入与力と云ふのは、東西両町奉行の組のうちから城代の許へ出して用を聞せる与力である。五郎兵衛は内山に糺問せられて、すぐに実を告げた。

 土井は大目附時田肇(はじめ)に、岡野小右衛門、菊地鉄平、芹沢啓次郎、松高縫蔵、安立讃太郎、遠山勇之助、斎藤正五郎、菊地弥六の八人を附けて、これに逮捕を命じた。

 三月二十六日の夜四つ半時、時田は自宅に八人のものを呼んで命を伝へ、すぐに支度をして中屋敷に集合させた。中屋敷では、時田が美吉屋の家宅の模様を書いたものを一同に見せ、なるべく二人を生擒にするやうにと云ふ城代の注文を告げた。岡野某は相談して、時田から半棒を受け取つた。それから岡野が入口の狭い所を進むには、順番を籤で極めて、争論のないやうにしたいと云ふと、一同これに同意した。岡野は重ねて、自分は齡五十歳を過ぎて、跡取の伜もあり、此度の事を奉公のしをさめにしたいから、一番を譲つて貰つて、次の二番から八番までの籤を人々に引かせたいと云つた。これにも一同が同意したので、籤を引いて二番菊地弥六、三番松高、四番菊地鉄平、五番遠山、六番安立、七番芹沢、八番斎藤と極めた。

 二十七日の暁(あけ)八つ時過、土井の家老鷹見十郎左衛門は岡野、菊地鉄平、芹沢の三人を宅に呼んで、西組与力内山を引き合せ、内山と同心四人とに部屋目附鳥巣(とす)彦四郎を添へて、偵察に遣ることを告げた。岡野等三人は中屋敷に帰つて、一同に鷹見の処置を話して、偵察の結果を待つてゐると、鷹見が出向いて来て、大切の役目だから手落のないやうにせいと云ふ訓示をした。七つ半過に鳥巣が中屋敷に来て、内山の口上を伝へて、本町五丁目の会所へ案内した。時田以下の九人は鳥巣を先に立てゝ、外に岡村桂蔵と云ふものを連れて本町へ往つた。暫く本町の会所に待つてゐると、内山の使に同心が一人来て、一同を信濃町の会所に案内した。油懸町の南裏通である。信濃町では、一同が内山の出した美吉屋の家の図面を見て、その意見に従つて、東表口に向ふ追手と、西裏口に向ふ搦手とに分れることになつた。

 追手は内山、同心二人、岡野、菊地弥六、松高、菊地鉄平の七人、搦手は同心二人、遠山、安立、芹沢、斎藤、時田の七人である。此二手は総年寄今井官之助、比田小伝次、永瀬七三郎三人の率ゐた火消人足に前以て取り巻かせてある美吉屋へ、六つ半時に出向いた。搦手は一歩先に進んで西裏口を固めた。追手は続いて岡野、菊地弥六、松高、菊地鉄平、内山の順序に東表口を這入つた。内山は菊地鉄平に表口の内側に居残つてくれと頼んだ。鉄平は一人では心元ないので、附いて来た岡村に一しよにゐて貰つた。

 追手の同心一人は美吉屋の女房つねを呼び出して、耳に口を寄せて云つた。「お前大切の御用だから、しつかりして勤めんではならぬぞ。お前は板塀の戸口へ往つて、平八郎にかう云ふのだ。内の五郎兵衛はお預けになつてゐるので、今家財改のお役人が来られた。どうぞちよいとの間裏の路地口から外へ出てゐて下さいと云ふのだ。間違へてはならぬぞ」と云つた。

 つねは顏色が真つ蒼になつたが、やうやう先に立つて板塀の戸口に往つて、もしもしと声を掛けた。併し教へられた口上を言ふことは出来なかつた。

 暫くすると戸口が細目に開いた。内から覗いたのは坊主頭の平八郎である。平八郎は捕手と顔を見合せて、すぐに戸を閉ぢた。

 岡野等は戸を打ちこはした。そして戸口から岡野が呼び掛けた。

 「平八郎卑怯だ。これへ出い。」

 「待て」と、平八郎が離座敷の雨戸の内から叫んだ。

 岡野等は暫くためらつてゐた。

 表口の内側にゐた菊地鉄平は、美吉屋の女房小供や奉公人の立ち退いた跡で暫く待つてゐたが、板塀の戸口で手間の取れる様子を見て、鍵形になつてゐる表の庭を、縁側の角に附いて廻つて、戸口にゐる同心に、「もう踏み込んではどうだらう」と云つた。

 「宜しうございませう」と同心が答へた。

 鉄平は戸口をつと這入つて、正面にある離座敷の雨戸を半棒で敲きこはした。戸の破れた所からは烟が出て、火薬の臭がした。

 鉄平に続いて、同心、岡野、菊地弥六、松高が一しよに踏み込んで、残る雨戸を打ちこはした。

 離座敷の正面には格之助の死骸らしいものが倒れてゐて、それに衣類を覆ひ、間内(まうち)の障子をはづして、死骸の上を越させて、雨戸に立て掛け、それに火を附けてあつた。雨戸がこはれると、火の附いた障子が、燃えながら庭へ落ちた。死骸らしい物のある奥の壁際に平八郎は鞘を払つた脇差を持つて立つてゐたが、踏み込んだ捕手を見て、其刃をメに吭(のど)に突き立て、引き抜いて捕手の方へ投げた。

 投げた脇差は、傍輩と一しよに半棒で火を払ひ除けてゐる菊地弥六の頭を越し、襟から袖をかすつて、半棒に触れ、少し切り込んでけし飛んだ。弥六の襟、袖、手首には、灑ぎ掛けたやうに血が附いた。

 火は,次第に燃えひろがつた。捕手は皆焔を避けて、板塀の戸口から表庭へ出た。

 弥六は脇差を投げ附けられたことを鉄平に話した。鉄平が「そんなら庭にあるだらう」と云つて、弥六を連れて戸口に往つて見ると、四五尺ばかり先に脇差は落ちてゐる。併し火が強くて取りに往くことが出来ない。そこへ最初案内に立つた同心が来て、「わたくし共の木刀には鍔がありますから、引つ掛けて掻き寄せませう」と云つた。脇差は旨く掻き寄せられた。柄は茶糸巻で、刃が一尺八寸あつた。

 搦手は一歩先に西裏口に来て、遠山、安立、芹沢、時田が東側に、斎藤と同心二人とが西側に並んで、真ん中に道を開け、逃げ出したら挾撃(はさみうち)にしようと待つてゐた。そのうち余り手間取るので、安立、遠山、斎藤の三人が覗きに這入つた。離座敷には人声がしてゐる。又持場に帰つて暫く待つたが、誰も出て来ない。三人が又覗きに這入ると、雨戸の隙から火焔の中に立つてゐる平八郎の坊主頭が見えた。そこで時田、芹沢と同心二人とを促して、一しよに半棒で雨戸を打ちこはした。併し火気が熾なので、此手のものも這入ることが出来なかつた。

 そこへ内山が来て、「もう跡は火を消せば好いのですから、消防方に任せてはいかがでせう」と云つた。

 遠山が云つた。「いや。死骸がぢき手近にありますから、どうかしてあれを引き出すことにしませう。」

 遠山はかう云つて、傍輩と一しよに死骸のある所へ水を打ち掛けてゐると、消防方が段々集つて来て、朝五つ過に火を消し止めた。

 総年寄今井が火消人足を指揮して、焼けた材木を取り除けさせた。其下から吉兵衛と云ふ人足が先づ格之助らしい死骸を引き出した。胸が刺し貫いてある。平生齒か出てゐたが、其歯を剥き出してゐる。次に平八郎らしい死骸が出た。これは吭(のど)を突いて俯伏してゐる。今井は二つの死骸を水で洗はせた。平八郎の首は焼けふくらんで、肩に埋まつたやうになつてゐるのを、頭を抱へて引き上げて、面体を見定めた。格之助は創の様子で、父の手に掛かつて死んだものと察せられた。今井は近所の三宅といふ医者の家から、駕籠を二挺出させて、それに死骸を載せた。

 二つの死骸は美吉屋夫婦と共に高原溜(たかはらたまり)へ送られた。道筋には見物人の山を築いた。


註*1 油掛町(あぶらかけちょう)が正しい。


参考
井形正寿「大塩平八郎終焉の地について
井形正寿「美吉屋五郎兵衛の家業についての考察


森鴎外「大塩平八郎」その11その13

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