Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.11.29
2000.1.26訂正

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」 その10

森 鴎外 (1862−1922)

『大塩平八郎・堺事件』
1940 岩波文庫 所収



   

十、城 

 けふの騒動が始て大阪の城代土井の耳に入つたのは、東町奉行跡部が王造口定番遠藤に加勢を請うた時の事である。土井は遠藤を以て東西両町奉行に出馬を言ひ付けた。丁度西町奉行堀が遠藤の所に来てゐたので、堀自分はすぐに沙汰を受け、それから東町奉行所に往つて、跡部に出馬の命を伝へることになつた。

 土井は両町奉行に出馬を命じ、同時に目附中川半左衛門、犬塚太郎左衛門を陰謀の偵察、与党の逮捕に任じて置いて、昼四つ時に定番(ぢやうばん)、大番(おほばん)、加番(かばん)の面々を呼び集めた。

 城代土井は下総古河の城主である。其下に居る定番二人のうち、まだ着任しない京橋口定番米倉は武蔵金沢の城主で、現に京橋口をも兼ね預かつてゐる玉造口定番遠藤は近江三上(みかみ)の城主である。定番の下には一年交代の大番頭が二人ゐる。東大番頭は三河新城の管沼織部正定忠、西大番頭は河内狭山の北條遠江守氏春である。以上は幕府の旗下で、定番の下には各与力三十騎、同心百人がゐる。大番頭の下には各組頭四人、組衆四十六人、与力十騎、同心二十人がゐる。京橋組、玉造組、東西大番を通算すると、上下の人数が定番二百六十四人、大番百六十二人、合計四百二十六人になる。これ丈では守備が不足なので、幕府は外様の大名に役知一万石宛を遣つて加番に取つてゐる。山里丸の一加番が越前大野の土井能登守利忠、中小屋の二加番が越後与板の井伊右京亮直経、青屋口の三加番が出羽長瀞(ながとろ)の米津伊勢守政懿(まさよし)、雁木坂の四加番が播磨安志(はりまあんじ)の小笠原信濃守長武である。加番は各物頭五人、徒目付(かちめつけ)六人、平士(ひらざむらひ)九人、徒(かち)六人、小頭七人、足軽二百二十四人を率ゐて入城する。其内に 小筒六十挺弓二十張がある。又棒突足軽が三十五人ゐる。四箇所の加番を積算すると、上下の人数が千三十四人になる。定番以下の此人数に城代の家来を加へると、城内には千五六百人の士卒がゐる。

 定番、大番、加番の集まつた所で、土井は正九つ時に城内を巡見するから、それまでに各持ち口を固めるやうにと言ひ付けた。それから士分のものは鎧櫃を担ぎ出す。具足奉行上田五兵衛は具足を分配する。鉄砲奉行石渡彦太夫は鉄砲玉薬を分配する。鍋釜の這入つてゐた鎧櫃もあつた位で、兵器装具には用立たぬものが多く、城内は一方ならぬ混雑であつた。

 九つ時になると、両大番頭が先導になつて、土井は定番、加番の諸大名を連れて、城内を巡見した。門の数が三十三箇所、番所の数が四十三箇所あるのだから、随分手間が取れる。どこに往つて見ても、防備はまだ目も鼻も開いてゐない。土井は暮六つ時に改めて巡見することにした。

 二度目に巡見した時は、城内の士卒の外に、尼崎、岸和田、高槻(たかつき)、淀などから繰り出した兵が到着している。

 坤(ひつじさる)に開いてゐる城の大手は土井の持口である。詰所は門内の北にある。門前には柵を結ひ、竹束を立て、土俵を築き上げて、大筒二門を据ゑ、別に予備筒二門が置いてある。門内には番頭が控へ、門外北側には小筒を持つた足軽百人が北向きに陣取つてゐる。南側には尼崎から来た松平遠江守忠栄(ただよし)の一番手三百三十余人が西向きに陣取る。略同数の二番手は後にここへ参着して、京橋口に遷り、次いで跡部の要求によつて守口、吹田へ往つた。後に郡山の一二番手も大手に加はつた。

 大手門内を、城代の詰所を過ぎて北へ行くと、西の丸である。西の丸の北、乾(いぬゐ)の角(すみ)に京橋口が開いてゐる。此口の定番の詰所は門内の東側にある。定番米津(よねづ)が着任してをらぬので、山里丸加番土井が守つてゐる。大筒の数は大手と同じである。門外には岸和田から来た岡部内膳正長和(ながかず)の一番手二百余人、高槻の永井飛騨守直興(ながとも)の手、其外淀の手が備へてゐる。

 京橋口定番の詰所の東隣は焔硝蔵である。焔硝蔵と艮(うしとら)の角の青屋口との中間に、本丸に入る極楽橋が掛つてゐる。極楽橋から這入つた所が山里で、其南が天主閣、其又南が御殿である。本丸には管沼、北条の両大番頭が備へてゐる。

 青屋口には門の南側に加番の詰所がある。此門は加番米津が守つて、中小屋加番の井伊が遊軍としてこれに加はつている。青屋口加番の詰所から南へ順次に、中小屋加番、雁木坂加番、玉造口定番の詰所が並んでゐる。雁木坂加番小笠原は、自分の詰所の前の雁木坂に馬印を立ててゐる。

 玉造口定番の詰所は巽(たつみ)に開いてゐる。王造口の北側である。此門は定番遠藤が守つてゐる。これに高槻の手が加はり、後には郡山の三番手も同じ所に附けられた。玉造口と大手との間は、東が東大番、西が西大番の平常の詰所である。

 土井の二度の巡見の外、中川、犬塚の両目附は城内所々を廻つて警戒し、又両町奉行所に出向いて情報を取つた。夜に入つてからは、城の内外(うちそと)の持口々々に篝火を焚き連ねて、炎焔天を焦すのであつた。跡部の役宅には伏見奉行加納遠江守久儔(ひさとも)、堀の役宅には堺奉行曲淵甲斐守景山が、各与力同心を率ゐて繰り込んだ。又天王寺方面には岸和田から来た二番手千四百余人が陣を張つた。

 目附中川、犬塚の手で陰謀の与党を逮捕しようと云ふ手配(てくばり)は、日暮頃から始まつたが、はかばかしい働きも出来なかつた。吹田村で氏神の神主をしている、平八郎の叔父宮脇志摩(みやわきしま)の所へ捕手の向つたのは翌二十日で、宮脇は切腹して溜池に飛び込んだ。船手奉行の手で、川口の舟を調べはじめたのは、中一日置いた二十一日の晩からである。城の兵備を撤したのも二十一日である。

 朝五つ時に天満から始まつた火事は、大塩の同勢が到る処に大筒を打ち掛け火を放つたので、風の余り無い日でありながら、思の外にひろがつた。天満は東が川崎、西が知源寺、摂津国町(つのくにまち)、又二郎町、越後町、旅籠町、南が大川、北が与力町を界とし、大手前から船場へ掛けての市街は、谷町一丁目から三丁目までを東界、上大みそ筋から下難波橋筋までを西界、内本町、太郎左衛門町、西入町、豊後町、安土町、魚屋町を南界、大川、土佐堀川を北界として、一面の焦土となつた。本町橋東詰で、西町奉行堀に分れて入城した東町奉行跡部は、火が大手近く燃えて来たので、夕七つ時に又坂本以下の与力同心を率ゐて火事場に出馬した。丁度火消人足が谷町で火を食ひ止めようとしてゐる所であつたが、人数が少いのと一同疲れてゐるのとのために、暮六つ半に谷町代官所に火の移るのを防ぐことが出来なかつた。鎮火したのは翌二十日の宵五つ半である。町数で言へば天満組四十二町、北組五十九町、南組十一町、家数、竈数で言へば、三千三百八十九軒、一万二千五百七十八戸が災に罹つたのである。


参考
松尾美恵子「大坂加番の一年
大塩焼け 被害一覧


森鴎外「大塩平八郎」その9/ その11

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