Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.1.9
2000.1.16修正

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」 その13

森 鴎外 (1862−1922)

『大塩平八郎・堺事件』
1940 岩波文庫 所収



   

十三、二月十九日後の三、評定  

 大塩平八郎が陰謀事件の評定は、六月七日に江戸の評定所に命ぜられた。大岡紀伊守忠愛(たヾちか)の預かつてゐた平山助次郎、大阪から護送して来た吉見九郎右衛門、同英太郎、河合八十次郎、大井正一郎、安田図書、大西与五郎、美吉屋五郎兵衛、同つね、其外西村利三郎を連れて伊勢から仙台に往き、江戸で利三郎が病死するまで世話をした黄檗の僧剛嶽、江戸で西村を弟子にした橋本町一丁目の願人冷月、西村の死骸を葬つた浅草遍照院の所化(しよけ)堯周等が呼び出されて、七月十六日から取調が始まつた。次いで役人が大阪へも出張して、両方で取り調べた。罪案が定まつて上申せられたのは天保九年閏四月八日で、宣告のあつたのは八月二十一日である。

 平八郎、格之助、渡辺、瀬田、小泉、庄司、近藤、大井、深尾、茨田、高橋、父柏岡、伜柏岡、西村、宮脇、橋本、白井孝右衛門と暴動には加はらぬが連判をしてゐた摂津森小路村の医師横山文哉、同国B飼野村の百姓木村司馬之助との十九人、それから返忠(かへりちゆう)をし掛けて遅疑した弓奉行組同心小頭竹上万太郎は磔になつた。然るに九月十八日に鳶田で刑の執行があつた時、生きてゐたのは竹上一人である。他の十九人は、自殺した平八郎、渡辺、瀬田、近藤、深尾、宮脇、病死した西村、人に殺された格之助、小泉を除き、彼(かの)江戸へ廻された大井迄悉く牢死したので、磔柱(はりつけばしら)には塩詰の死骸を懸けた。中にも平八郎父子は焼けた死骸を塩詰にして懸けられたのである。西村は死骸が腐つてゐたので、墓を毀たれた。

 松本、堀井、杉山、曾我、植松、大工作兵衛、猟師金助、美吉屋五郎兵衛、瀬田の中間浅佶、深尾の募集に応じた尊延寺村の百姓忠右衛門と無宿新右衛門とは獄門、暴動に加はらぬ与党の内、上田、白井孝右衛門の甥儀次郎、般若寺村の百姓卯兵衛は死罪、平八郎の妾ゆう、美吉屋の女房つね、大西与五郎と白井孝右衛門の伜で、穉(をさな)い時大塩の塾にゐたこともあり、父の陰謀の情を知つてゐた彦右衛門とは遠島、安田と杉山を剃髮させた同人の伯父、河内大蓮寺の僧正方、西村の逃亡を助けた同人の姉壻、堺の医師歯繧フ二人とは追放になつた。併し此人々も杉山、上田、大西、伜白井の四人の外は皆刑の執行前に牢死した。 密訴をした平山と父吉見とは取高の侭譜代席小普請入になり、吉見英太郎、河合八十次郎は各銀五十枚を賜はつた。此中で酒井大和守忠嗣へ預替になつてゐた平山は、番人の便所に立つた留守に詰所の棚の刀箱から脇差を取り出して自殺した。

 城代土井以下賞与を受けたものは十九人あつた。中にも坂本鉉之助は鉄砲方になつて、目見(めみえ)以上の末席に進められた。併し両町奉行には賞与がなかつた。


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