森 鴎外 (1862−1922)
『大塩平八郎・堺事件』
1940 岩波文庫 所収
万記録の内容は、松平遠江守の家来稲垣左近右衛門と云ふ者が、見聞した事を数度に主家へ注進した文書である。松平遠江守とは摂津尼崎の城主松平忠栄(ただなが)の事であらう。
万記録は所謂風説が大部分を占めてゐるので、其中から史実を選み出さうとして見ると、獲ものは頗乏しい。併し記事が穴だらけなだけに、私はそれに空想を刺戟せられた。
そこで現に公にせられてゐる、大塩に関した書籍の中で、一番多くの史料を使つて、一番精しく書いてある幸田成友君の「大塩平八郎」を読み、同君の新小説に出した同題の記事を読んだ。そして古い大阪の地図や、「大阪城志」*1を参考して、伝へられた事実を時間と空間との経緯に配列して見た。
こんな事をしてゐる間、私の頭の中を稍久しく大塩平八郎と云ふ人物が占領してゐた。私は友人に逢ふ度に、平八郎の話をし出してこれに開係した史料や史論を聞かうとした。松岡寿君は平八郎の塾にゐた宇津木矩之允と岡田良之進との事に就いて、在来の記録に無い事実を聞かせてくれ、又三上参次君、松本亦太郡君は多少纏つた評論を聞せてくれた。
そのうち私の旧主人が建ててゐる菁々塾の創立記念会があつた。私は講話を頼まれて、外に何も考へてゐなかつた為め、大塩平八郎を題とした二時間ばかりの話をした。
そしてとうとう平八郎の事に就いて何か書かうと云ふ気になつた。
私は無遠慮に「大塩平八郎」と題した一篇を書いた。それは中央公論に載せられた。
平八郎の暴動は天保八年二月十九日である。私は史実に推測を加へて、此二月十九日と云ふ一日の間の出来事を書いたのである。史実として時刻の考へられるものは、概ね左の通である。
天保八年二月十九日 | ||
事 実 | ||
午前四時 | 暁七時 (寅) |
吉見英太郎、河合八十次郎の二少年吉見の父九郎右衛門の告発書を大阪西町奉行堀利堅に呈す。 |
六時 | 明六時 (卯) |
東町奉行跡部良弼は代官二人に防備を命じ、大塩平八郎の母兄大西与五郎に平八郎を訪ひて処決せしむることを嘱す。 |
七時 | 朝五時 (辰) |
平八郎家宅に放火して事を挙ぐ。 |
十時 | 昼四時 (巳) |
跡部城(坂)本鉉之助に東町奉行所の防備を命ず。 |
十一時 | 昼四半時 | 城代土井利位城内の防備を命ず。 |
十二時 | 昼九時 (午) |
平八郎の隊北浜に至る。土井初めて城内を巡視す。 |
午後四時 | 夕七時 (申) |
平八郎等八軒屋に至りて船に上る。 |
六時 | 暮六時 (酉) | 平八郎に附随せる与党の一部上陸す。土井再ぴ城内を巡視す。 |
時刻の知れてゐるこれだけの事実の前後と中間とに、伝へられてゐる一日間の一切の事実を盛り込んで、矛盾が生じなけれぱ、それで一切の事実が正確だと云ふことは証明せられぬまでも、記載の信用は可なり高まるわけである。私は敢てそれを試みた。そして其間に推測を逞くしたには相違ないが、余り暴力的な切盛や、人を馬鹿にした捏造はしなかつた。
私の「大塩平八郎」は一日間の事を書くを主としてゐたのだが、其一日の間に活動してゐる平八郎と周囲の人物とは、皆それぞれの過去を持つてゐる。記憶を持つてゐる。殊に外生活だけを臚列するに甘んじないで、幾分か内生活に立ち入つて書くことになると、過去の記憶は比較的大きい影響を其人々の上に加へなくてはならない。さう云ふ場合を書く時、一目に見わたしの付くやうに、私は平八郎の年譜を作つた。原稿には次第に種々な事を書き入れたので、啻に些の空白をも残さぬぱかりでなく、文字と文字とが重なり合つて、他人が見てはなんの反古だか分からぬやうになつた。ここにはこれを省略して載せる。
註*1「大阪城志」は『大阪城誌 上 中 下』(小野清 1899)のことか。