Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.1.12
2000.1.26訂正

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」 その16

森 鴎外 (1862−1922)

『大塩平八郎・堺事件』
1940 岩波文庫 所収



  

附  録 その3

 二月十九日中の事を書くに、十九日前の事を回顧する必要があるやうに、十九日後の事も多少書き足さなくてはならない。それは平八郎の末路を明にして置きたいからである。平八郎は十九日の夜大阪下寺町を彷徨してゐた。それから二十四日の夕方同所油懸町の美吉屋に来て潜伏するまでの道行は不確である。併し下寺町で平八郎と一しょに彷徨してゐた渡辺良左衛門は河内国志紀郡田井中村で切腹してをり、瀬田済之助は同国高安郡恩地村で縊死してをつて、二人の死骸は二十二日に発見せられた。そこで大阪下寺町、河内田井中村、同恩地村の三箇所を貫いて線を引いて見ると、大阪から河内国を横断して大和国に入る道筋になる。平八郎が二十日の朝から二十四日の暮までの間に、大阪、田井中、恩地の間を往反したことは、殆疑を容れない。又下寺町から田井中へ出るには、平野郷口から出たことも、亦推定することが出来る。唯恩地から先をどの方向にどれ丈歩いたかが不明である。

 試みに大阪、田井中、恩地の線を、甚しい方向の変換と行程の延長とを避けて、大和境に向けて引いて見ると、亀瀬峠は南に偏し、十三峠は北に偏してゐて、恩地と相隣してゐる服部川から信貴越をするのが順路だと云ひたくなる。かう云ふ理由で、私は平八郎父子に信貴越をさせた。そして美吉屋を叙する前に、信貴越の一段を挿入した。

 二月十九日後の記事は一、信貴越、二、美吉屋、三、評定と云ふことになつた。


 平八郎が暴動の原因は、簡単に言へば飢饉である。外に種々の説があつても、大抵揣摩である。

 大阪は全国の生産物の融通分配を行つてゐる土地なので、どの地方に凶歉があつても、すぐに大影響を被る。市内の賤民が飢饉に苦むのに、官吏や富豪が奢侈を恣にしてゐる。平八郎はそれを憤つた。それから幕府の命令で江戸に米を回漕して、京都へ遣らない。それを不公平だと思つた。江戸の米の需要に比すれば、京都の米の需要は極僅少であるから、京都への米の運送を絶たなくても好ささうなものである。全国の石高を幕府、諸大名、御料、皇族並公卿、社寺に配当したのを見るに、左の通である。 

 天保元年、二年は豊作であつた。三年の春は寒気が強く、気候が不順になつて、江戸で白米が小売百文に付五合になつた。文政頃百文に付三升であつたのだから、非常な騰貴である。四年には出羽の洪水のために、江戸で白米が一両につき四斗、百文に付四合までなつた。卸値は文政頃一両に付二石であつたのである。五年になつても江戸で最高価格が前年と同じであつた。七年には五月から寒くなつて雨が続き、秋洪水があつて、白米が江戸で一両に付一斗二升、百文に付二合とまでなつた。大阪では江戸程の騰貴を見なかつたらしいが、当時大阪総年寄をしてゐた今井官之助、後に克復と云つた人の話に、一石二十七匁五分の白米が二百匁近くなつてゐたと云ふことである。いかにも一石百八十七匁と云ふ記載がある。金一両銀六十匁銭六貫五百文の比例で換算して見ると、平常の一石二十七匁五分は一両に付二石一斗八升となり、一石百八十七匁は一両に付三斗二升となる。百文に付四合九勺である。此年の全国の作割と云ふものがある。

 これから古米食込高一二%を入れ戻せば、三○、四%の収穫となる。七年の不良な景況は、八年の初になつても依然としてゐた。江戸で白米が百俵百十五両、小売百文に付二合五勺、京都の小売相場も同じだと云ふ記載がある。江戸の卸値は二斗五升俵として換算すれば、一両につき三斗四合である。

 平八郎は天保七年に米価の騰貴した最中に陰謀を企てて、八年二月に事を挙げた。貧民の身方になつて、官吏と富豪とに反抗したのである。さうして見れば、此事件は社会問題と関係してゐる。勿論社会問題と云ふ名は、西洋の十八世紀末に、工業に機関を使用するやうになり、大工場が起つてから、企業者と労働者との間に生じたものではあるが、其萌芽はどこの国にも昔からある。貧富の差から生ずる衝突は皆それである。

 若し平八郎が、人に貴賤貧富の別のあるのは自然の結果だから、成行の儘に放任するが好いと、個人主義的に考へたら、暴動は起さなかつただらう。

 若し平八郎が、国家なり、自治団体なりにたよつて、当時の秩序を維持してゐながら、救済の方法を講ずることが出来たら、彼は一種の社会政策を立てただらう。幕府のために謀ることは、平八郎風情には不可能でも、まだ徳川氏の手に帰せぬ前から、自治団体として幾分の発展を遂げてゐた大阪に、平八郎の手腕を揮はせる余地があつたら、暴動は起らなかつただらう。

 この二つの道が塞がつていたので、平八郎は当時の秩序を破壊して望を達せようとした。平八郎の思想は未だ醒覚せざる社会主義である。

 未だ醒覚せざる社会主義は、独り平八郎が懐抱してゐたぱかりではない。天保より前に、天明の飢饉と云ふのがあつた。天明七年には江戸で白米が一両に付一斗二升、小売百文に付三合五勺になつた。此年の五月十二日に大阪で米屋こわしと云ふことが始まつた。貧民が群をなして米屋を破壊したのである。同月二十日には江戸でも米屋こはしが起つた。赤坂から端緒を発して、破壊せられた米商富人の家が千七百戸に及んだ。次いで天保の飢饉になつても、天保七年五月十二日に大阪の貧民が米屋と富家とを襲撃し、同月十八日には江戸の貧民も同じ暴動をした。此等の貧民の頭の中には、皆未だ醒覚せざる社会主義があつたのである。彼等は食ふべき米を得ることが出来ない。そして富家と米商とが其資本を運転して、買占其他の策を施し、貧民の膏血を涸らして自ら肥えるのを見てゐる。彼等はこれに処するにどう云ふ方法を以てして好いか知らない。彼らは未だ醒覚していない。唯盲目な暴力を以て富家と米商とに反抗するのである。

 平八郎は極言すれば米屋こはしの雄である。天明に於いても、天保に於いても、米屋こはしは大阪から始まつた。平八郎が大阪の人であるのは、決して偶然ではない。

 平八郎は哲学者である。併しその良知の哲学からは、頼もしい社会政策も生れず、恐ろしい社会主義も出なかつたのである。



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