Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.1.14
2001.6.18修正

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「大 塩 平 八 郎」 その17

森 鴎外 (1862−1922)

『大塩平八郎・堺事件』
1940 岩波文庫 所収



  

附  録 その4

 平八郎が陰謀の与党は養子格之助、叔父宮脇志摩を除く外、殆皆門人である。それ以外には家塾の賄方、格之助の若党、中間、瀬田済之功の若党、中間、大工が一人、猟師が一人ゐる位のものである。橋本忠兵衛は平八郎の妾の義兄、格之助の妾の実父であるが、これも同時に門人になつてゐた。

 暴動の翌年天保九年八月二十一日の裁決によつて、磔に処せられた二十人は左の通である。

 次に左の十一人は獄門に処せられた。  次に左の三人は死罪に処せられた。 次に左の四人は遠島に処せられた。  次に左の三人は追放に処せられた。  以上重罪者三十一人の中で、刑を執行せられる時生存してゐたものは、竹上、杉山、上田、大西、白井彦右衛門の五人丈である。他の二十六人は悉く死んでゐて、内平八郎、渡辺、瀬田、近藤、深尾、宮脇六人は自殺、小泉は他殺、格之助は他殺の疑、西村は逮捕せられずに病死、残余の十七人は牢死である。九月十八日には鳶田で塩詰にした屍首を磔柱、獄門台に懸けた。江戸で願人坊主になつて死んだ西村丈は、浅草遍照院に葬つた死骸が腐つてゐたので、墓を毀たれた。

 当時の罪人は一年以内には必ず死ぬる牢屋に入れられ、死んでから刑の宣告を受け、塩詰にした死骸を磔柱などに懸けられたものである。これは独平八郎の与党のみではない。平八郎が前に吟味役として取り扱つた邪宗門事件の罪人も、同じ処置に逢つたのである。

 近い頃のロシアの小説に、を衝かぬ小学生徒と云ふものを書いたのがある。我事も人の事も、有の儘を教師に告げる。そこで傍輩に憎まれてゐたたまらなくなるのである。又ドイツの或る新聞は「小学教師は生徒に傍輩の非行を告発することを強制すべきものなりや否や」と云ふ問題を出して、諸方面の名士の答案を募つた。答案は区々であつた。 

 個人の告発は、現に諸国の法律で自由行為になつてゐる。昔は一歩進んで、それを褒むべき行為にしてゐた。秩序を維持する一の手段として奨励したのである。中にも非行の同類が告発をするのを返忠と称して、これに忠と云ふ名を許すに至つては、奨励の最顕著なるものである。 

 平八郎の陰謀を告発した四人は皆其門人で、中で単に手先に使はれた少年二人を除けば、皆其与党である。

 評定の結果として、平山、吉見は取高の儘小普請入を命ぜられ、英太郎、八十次郎の二少年は賞銀を賜はつた。然るに平山は評定の局を結んだ天保九年閏四月八日と、それが発表せられた八月二十一日との中間、六月二十日に自分の預けられていた安房勝山の城主酒井大和守忠和の邸で、人間らしく自殺を遂げた。

(了)


初出 『中央公論 第29年第1号』1914

註*1 恩地 → 恩智
 *2 三原村 → 三沢村
 *3 油懸町 → 油掛町


参考
・国立史料館『大塩平八郎一件書留』(東京大学出版会 1987)
・相蘇一弘「大塩の乱関係者一覧とその考察」(『大阪市立博物館研究紀要 第26冊』1994.3 )


大 塩 乱」(大阪市史)
御触」(乱発生後)
高札」(高麗橋など)


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