Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.11.6
2000.1.7訂正

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」 その3

森 鴎外 (1862−1922)

『大塩平八郎・堺事件』
1940 岩波文庫 所収



    

三、四軒屋敷

 天満橋筋長柄町を東に入つて、角から二軒目の南側で、所謂四軒屋敷の中に、東組与力大塩格之助の役宅がある。主人は今年二十七歳で、同じ組与力西田青太夫の弟に生れたのを、養父平八郎が貰つて置いて、七年前にお暇になる時、番代に立たせたのである。併し此家では当主は一向当主らしくなく、今年四十五歳になる隠居平八郎が万事の指図をしてゐる。

 玄関を上がつて右が旧塾と云つて、ここには平八郎が隠居する数年前から、その学風を慕つて寄宿したものがある。左は講堂で、読礼堂と云ふ■額が懸けてある。その東隣が後に他家を買ひ潰して広げた新塾である。講堂の背後(うしろ)が平八郎の書斎で、中斎と名づけてある。それから奥、東照宮の境内の方へ向いた部屋々々が家内のものの居所で、食事の時などに集まる広間には、鏡中看花館と云ふ■額が懸つてゐる。これだけの建物のうちに起臥してゐるものは、家族でも学生でも、悉く平八郎が独裁の杖の下に項(うなじ)を屈してゐる。当主格之助などは、旧塾に九人、新塾に十余人ゐる平の学生に比べて、殆ど何等の特権をも有してをらぬのである。

■の字

 東町奉行所で自刃の下を脱れて、瀬田済之助が此の屋敷に駆け込んで来た時の屋敷は、決して此の出来事を青天の霹靂として聞くやうな、平穏無事の光景(ありさま)ではなかつた。家内中の女子供はもう十日前に悉く立ち退かせてある。平八郎が二十六歳で番代に出た年に雇つた妾、曾根崎新地の茶屋大黒屋和市の娘ひろ、後の名ゆうが四十歳、七年前に格之助が十九歳で番代に出た時に雇つた妾、般若寺村の庄屋橋本忠兵衛の娘みねが十七歳、平八郎が叔父宮脇志摩の二女を五年前に養女にしたいくが九歳、大塩家にゐた女は此三人で、それに去年の暮にみねの生んだ弓太郎を附け、女中りつを連れさせて、ゆうがためには義兄、みねがためには実父に当る般若寺村の橋本方へ立ち退かせたのである。

 女子供がをらぬばかりではない。屋敷は近頃急に殺風景になつてゐる。それは兼て門人の籍にゐる兵庫西出町の柴屋長太夫、其外縁故のある商人に買つて納めさせ、又学生が失錯をする度に、科料の代に父兄に買つて納めさせた書籍が、玄関から講堂、書斎へ掛けて、二三段に積んだ本箱の中にあつたのに、今月に入つてからそれを悉く運び出させ、土蔵にあつた一切経などをさへそれに加えて、書店河内屋喜兵衛、同新次郎、同記一兵衛、同茂兵衛の四人の手で銀に換へさせ、飢饉続きのために難儀する人民に施すのだと云つて、安堂寺町五丁目の本屋会所で、親類や門下生に縁故のある凡三十三町村のもの一万軒に、一軒一朱の割を以て配つた。質素な家の唯一の装飾になつてゐた書籍が無くなつたので、家はがらんとしてしまつた。

 今一つ此家の外貌が傷つけられてゐるのは、職人を入れて兵器弾薬を製造させてゐるからである。町与力は武芸を以て奉公してゐる上に、隠居平八郎は玉造組与力柴田勘兵衛の門人で、佐分利流の槍を使ふ。当主格之功は同組同心故人藤重(ふじしげ)孫三郎の門人で、中島流の大筒を打つ。中にも砲術家は大筒をも貯へ火薬をも製する習ではあるが、此家では夫が格別に盛んになつてゐる。去年九月の事であつた。平八郎は格之助の師藤重の悴良左衛門、孫槌大郎の両人を呼んで、今年の春堺七堂が浜で格之助に丁打(ちやううち)をさせる相談をした。それから平八郎、格之助の部屋の附近に戸締をして、塾生を使つて火薬を製させる。棒火矢(ぼうひや)、炮碌玉(はうろくだま)を作らせる。職人を入れると、口実を設けて再び外へ出さない。火矢の材木を挽き切つた天満北木幡町の大工作兵衛などがそれである。かう云ふ製造は昨晩まで続けられてゐた。大筒は人から買ひ取つた百目筒が一挺、人から借り入れて返さずにある百目筒が二挺、門人守口村の百姓兼質商白井孝右衛門が土蔵の側の松の木を伐つて作つた木筒が二挺ある。砲車は石を運ぶ台だと云つて作らせた。要するに此半年ばかりの間に、絃誦洋々の地が次第に喧噪と雑■(ざつたふ)とを常とする工場になつてゐたのである。

■の字

 家がそんな模様になつてゐて、そこへ重立つた門人共の寄り合つて、夜の更けるまで還らぬことが、此頃次第に度重なつて来てゐる。昨夜は隠居と当主との妾の家元、摂津般若寺村の庄屋橋本忠兵衛、物持で大塩家の生計を助けてゐる摂津守口村の百姓兼質屋白井孝右衛門、東組与力渡辺良左衛門、同組同心庄司義左衛門、同組同心の悴近藤梶五郎、般若寺村の百姓柏岡源右衛門、悴伝七、河内門真三番村の百姓茨田郡次の八人が酒を飲みながら話をしてゐて、折々いつもの人を圧伏するやうな調子の、隠居の声が洩れた。平生最も隠居に親しんでいる此八人の門人は、とうとう屋敷に泊まつてしまつた。この頃は客があつてもなくても、勝手の為事は、兼て塾の賄方をしている杉山三平が、人夫を使つて取り賄つてゐる。杉山は河内国衣摺村の庄屋で、何か仔細があつて所払 (ところはらひ)になつたものださうである。手近な用を逹すのは、格之助の若党大和国曾我村生の曾我岩蔵、中間木八(きはち)、吉助である。女はうたと云ふ女中が一人、傍輩のりつがお部屋に附いて立ち退いた跡で、頻に暇(いとま)を貰ひたがるのを、宥(なだ)め賺(すか)して引き留めてあるばかりで、格別物の用には立つてゐない。そこでけさ奥にゐるものは、隠居平八郎、当主格之助、賄方杉山、若党曽我、中間木八、吉助、女中うたの七人、昨夜の泊客八人、合計十五人で、其外には屋敷内の旧塾、新塾の学生、職人、人夫抔がゐたのである。

 瀬田済之助はかう云ふ中へ駆け込んで来た。


森鴎外「大塩平八郎」その2その4

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