Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.11.14
2000.1.1訂正

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」 その5

森 鴎外 (1862−1922)

『大塩平八郎・堺事件』
1940 岩波文庫 所収



    

五、門  出

 瀬田済之助が東町奉行所の危急を逃れて、大塩の屋敷へ駆け込んだのは、明六つを少し過ぎた時であつた。

 書斎の襖をあけて見ると、ゆうべ泊まつた八人の与党、その外中船場町の医師の伜で僅かに十四歳になる松本隣太夫、天満五丁目の商人阿部長助、摂津沢上江村の百姓上田孝太郎、河内門真三番村の百姓高橋九右衛門、河内弓削村の百姓西村利三郎、河内尊延寺村の百姓深尾才次郎、播磨西村の百姓堀井儀三郎、近江小川村の医師志村力之助、大井、安田等に取り巻かれて、平八郎は茵(しとね)の上に端坐してゐた。

 身の丈五尺六寸の、面長な、色の白い男で、四十五歳にしては老人らしい所が無い。濃い、細い眉は弔(つ)つてゐるが、張の強い、鋭い目は眉程には弔つてゐない。広い額に青筋がある。髷は短く詰めて結つてゐる。月題(さかやき)は簿い。一度喀血したことがあつて、口の悪い男には青瓢箪と云はれたと云ふが、現(げ)にもと頷かれる。

 「先生。ご用心をなさい。手入れがあります。」駆け込んで、平八郎が前にすわりながら、瀬田は叫んだ。

 「さうだろう。巡見が取止になつたには、仔細がなうてはならぬ。江戸へ立つた平山の所為(しよゐ)だ。」

 「小泉は遣られました。」

 「さうか。」

 目を見合わせた一座の中には、同情のささやきが起つた。

 平八郎は一座をずつと見わたした。「兼ての手筈の通りに打ち立たう。棄て置き難いのは宇津木一人だが、その処置は大井と安田に任せる。」

 大井、安田の二人はすぐに起たうとした。

 「まあ待て。打ち立つてからの順序は、只第一段を除いて、すぐに第二段にかかるまでぢや。」

 第一段とは朝岡の家を襲ふことで、第二段とは北船場へ進むことである。これは方略に極めてあつたのである。

 「さあ」と瀬田が声を掛けて一座を顧みると、皆席を起つた。中で人夫の募集を受け合つてゐた柏岡伝七と、檄文を配る役になつてゐた上田とは屋敷を出て往つた。間もなく家財や、はずした建具を奥庭へ運び出す音がし出した。

 平八郎は其儘端坐してゐる。そして熱した心の内を、此陰謀がいかに萌芽し、いかに生長し、いかなる曲折を経て今に至つたと云ふことが夢のやうに往来する。平八郎はかう思ひ続けた。己(おれ)が自分の材幹と値遇とによつて、吏胥(りしよ)として成し遂げられるだけの事を成し遂げた上で、身を引いた天保元年は泰平であつた。民の休戚が米作の豊凶に繋つてゐる国では、豊年は泰平である。二年も豊作であつた。三年から気候が不順になつて、四年には東北の洪水のために、天明六七年以来の飢饉になつた。五年に稍常に復しさうに見えるかと思ふと、冬から六年の春に掛けて雨がない。六年には東北に螟虫が出来る。海嘯(つなみ)がある。とうとう去年は五月から雨続きで、冬のやうに寒く、秋は大風大水があり、東北を始めとして全国の不作になつた。己は隠居してから心を著述に専らにして、古本大学刮目、洗心洞箚記、同付録抄、儒門空虚聚語、孝経彙註の刻本が次第に完成し、箚記を富士山の石室に藏し、又足代権太夫弘訓(ひろのり)の勧によつて、宮崎林崎の両文庫に納めて、学者としての志をも遂げたのだが、連年の飢饉、賎民の困窮を、目を塞いで見ずにはをられなかつた。そしてそれに対する町奉行以下諸役人の処置に平かなることが出来なかつた。賑恤もする。造酒に制限も加へる。併し民の疾苦は増すばかりで減じはせぬ。殊に去年から与力内山を使つて東町奉行跡部の遣つてゐる為事が気に食はぬ。幕命によつて江戸へ米を廻漕するのは好い。併し些しの米を京都に輸(おく)ることをも拒んで、細民が大阪へ小買に出ると、捕縛するのは何事だ。己は王道の大体を学んで、功利の末技を知らぬ。上の驕奢と下の疲弊とがこれまでになつたのを見ては、おれにも策の施すべきものが無い。併し理を以て推せば、これが人世必然の勢だとして旁看するか、町奉行以下諸役人や市中の富豪に進んで救済の法を講ぜさせるか、諸役人を誅し富豪を脅して其私蓄を散ずるかの三つより外あるまい。己は此不平に甘んじて旁看してはをられぬ。己は諸役人や富豪が大阪のために謀つてくれようとも信ぜぬ。己はとうとう誅伐と脅迫とによつて事を済さうと思ひ立つた。鹿台の財を発するには、無道の商を滅さんではならぬと考へたのだ。己が意を此に決し、言を彼に託し、格之助に丁打(ちやううち)をさせると称して、準備に取り掛つたのは、去年の秋であつた。それからは不平の事は日を逐うて加はつても、準備の捗つて行くのを顧みて、慰籍を其中に求めてゐた。其間に半年立つた。さてけふになつて見れば、心に浚巡する怯(おくれ)もないが、又踊躍する競(きほひ)もない。準備をしてゐる久しい間には、折々成功の時の光景が幻のやうに目に浮かんで、地上に血を流す役人、脚下に頭を叩く金持、それから草木の風に靡くやうに来り附する諸民が見えた。それが近頃はもうそんな幻も見えなくなつた。己はまだ三十代で役を勤めてゐた頃、高井殿に信任せられて、耶蘇教徒を逮捕したり、奸吏を糾弾したり、破戒僧を羅致したりしてゐながら、老婆豊田貢の磔になる所や、両組*1 与力弓削新右衛門の切腹する所や、大勢の坊主が珠数繋にせられる所を幻に見ることがあつたが、それは皆間もなく事実になつた。そして事実になるまで、己の胸には一度も疑が萌さなかつた。今度はどうもあの時とは違ふ。それにあの時は己の意図が先づ恣に動いて、外界の事柄がそれに附随して来た。今度の事になつてからは、己は準備をしてゐる間、何時でも用に立てられる左券を握つてゐるやうに思つて、それを慰藉にした丈で、動(やゝ)もすれば其準備を永く準備の儘で置きたいやうな気がした。けふまでに事柄の捗つて来たのは、事柄其物が自然に捗つて来たのだと云つても好い。己が陰謀を推して進めたのではなくて、陰謀が己を拉して走つたのだと云つても好い。一体この終局はどうなり行くだらう。平八郎はかう思ひ続けた。

 平八郎が書斎で沈思してゐる間に、事柄は実際自然に捗つて行く。屋敷中に立ち別れた与党の人々は、受持々々の為事をする。時々書斎の入口まで来て、今宇津木を討ち果したとか、今奥庭に積み上げた家財に火を掛けたとか、知らせるものがあるが、其度毎に平八郎は只一目そつちを見る丈である。

 さていよいよ勢揃いをすることになつた。場所は兼て東照宮の境内を使ふことにしてある。そこへ出る時人々は始て非常口の錠前の開いてゐたのを知つた。行列の真つ先に押し立てたのは救民と書いた四半の旗である。次に中に天照皇大神宮、右に湯武両聖王、左に八幡大菩薩と書いた旗、五七の桐に二つ引きの旗を立てヽ行く。次に木筒が二挺行く。次に大井と庄司とで各小筒を持つ、次に格之助が着込野袴(きごみのばかま)で、白木綿の鉢巻を締めて行く。下辻村の猟師金助がそれに引き添ふ。次に大筒が二挺と鑓を持つた雑人(ざふにん)とが行く。次に略格之助と同じ支度の平八郎が、黒羅紗の羽織、野袴で行く。茨田と杉山とが鑓を持つて左右に随ふ。若党曾我と中間木八、吉助とが背後(うしろ)に附き添ふ。次に相図の太鼓が行く。平八郎の手には高橋、堀井、安田、松本等の与党がゐる。次は渡辺、志村、近藤、深尾、父柏岡等重立つた人々で、特に平八郎に親しい白井や橋本も此中にゐる。一同着込帶刀で、多くは手鑓を持つ。押へは大筒一挺を挽かせ、小筒持の雑人二十人を随へた瀬田で、傍に若党植松周次、中間浅佶が附いてゐる。

 此総人数凡百余人が屋敷に火をかけ、表側の塀を押し倒して繰り出したのが、朝五つ時である。先づ主人の出勤した跡の、向屋敷朝岡の門に大筒の第一発を打ち込んで、天満橋筋の長柄町に出て、南へ源八町まで進んで、与力町を西へ折れた。これは城と東町奉行所とに接してゐる天満橋を避けて、迂回して船場に向はうとするのである。


管理人註 *1
「西組」か
森鴎外「大塩平八郎」その4その6

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