Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.11.16
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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」 その6

森 鴎外 (1862−1922)

『大塩平八郎・堺事件』
1940 岩波文庫 所収



六、坂本鉉之助

 東町奉行所で小泉を殺し、瀬田を取り逃がした所へ、堀が部下の与力同心を随へて来た。跡部は堀と相談して、明六つ時にやうやう三箇條の手配をした。鈴木町の代官根本善左衛門に近郷の取締りを托したのが一つ。谷町の代官池田岩之丞に天満の東照宮、建国寺方面の防備を托したのが二つ。平八郎の母の兄、東組与力大西与五郎が病気引をしてゐる所へ使を遣つて、甥平八郎に切腹させるか、刺し違へて死ぬるかのうちを選べと云はせたのが三つである。与五郎の養子善之進は父のために偵察しようとして長柄町近くへ往くと、もう大塩の同勢が繰り出すので、鷲いて逃げ帰り、父と一しよに西の宮へ奔り、また懼れて大阪へ引き返ししなに、両刀を海に投げ込んだ。

 大西へ使いを遣つた跡で、跡部、堀の両奉行は更に相談して、両組の与力同心を合併した捕手を大塩が屋敷へ出した。そのうち朝五つ近くなると、天満に火の手が上がつて、間もなく砲声が聞えた。捕手は所詮近寄れぬと云つて帰つた。

 両奉行は鉄砲奉行石渡彦太夫、御手洗伊右衛門に、鉄砲同心を借りに遣つた。同心は二人の部下を併せて四十人である。次にそれでは足らぬと思つて、王造口定番遠藤但馬守胤統(たねをさ)に加勢を願つた。遠藤は公用人畑佐(はたさ)秋之助に命じて、玉造組与力で月番同心支配をしてゐる坂本鉉之助を上屋敷に呼び出した。

 坂本は荻野流の砲術者で、けさ丁打(ちやううち)をすると云つて、門人を城の東裏にある役宅の裏庭に集めてゐた。そのうち五つ頃になると、天満の火の手が上がつたので、急いで役宅から近い大番所へ出た。そこに月番の王造組平与力本多為助、山寺三二郎、小島鶴之丞が出てゐて、本多が天満の火事は大塩平八郎が所為(しよゐ)だと告げた。これは大塩の屋敷に出入する猟師清五郎と云ふ者が、火事場に駆け附けて引き返し、同心支配岡翁助に告げたのを、岡が本多に話したのである。坂本はすぐに城の東裏にゐる同じ組の与力同心に総出仕の用意を命じた。間もなく遠藤の総出仕の達しが来て、同時に坂本は上屋敷へ呼ばれたのである。

 畑佐の伝へた遠藤の命令はかうである。同心支配一人、与力二人、同心三十人鉄砲を持つて東町奉行所へ出て来い。また同文の命令を京橋組へも伝達せいと云ふのである。坂本は承知の旨を答へて、上屋敷から大番所へ廻つて手配をした。同心支配は三人あるが、これは自分が出ることにし、小頭の与力二人には平与力蒲生熊次郎、本多為助を当て、同心三十人は自分と同役岡との組から十五人宛出すことにした。集合の場所は土橋と極めた。京橋組への伝達には、当番与力脇勝大郎に書附を持たせて出して遣つた。

 手配が済んで、坂本は役宅に帰つた。そして火事装束、草鞋掛で、十文目筒を持つて土橋へ出向いた。蒲生と同心三十人とは揃つてゐた。本多はまだ来てゐない。集合を見に来てゐた畑佐は、跡部に二度催促せられて、京橋口へ廻つて東町奉行所に往くことにして、先へ帰つたのださうである。坂本は本多がために同心一人を留めて置いて、集合地を発した。堀端を西へ、東町奉行所を指して進むうちに、跡部からの三度目の使者に行き合つた。本多と残して置いた同心とは途中で追ひ附いた。

 坂本が東町奉行所に来て見ると、畑佐はまだ来てゐない。東組与力朝岡助之丞と西組与力近藤三右衛門とが応接して、大筒を用意して貰ひたいと云つた。坂本はそれまでの事には及ばぬと思ひ、又指図の区々(まちまち)なのを不平に思つたが、それでも馬一頭を借りて蒲生を乗せて、大筒を取り寄せさせに、玉造口定番所へ遣つた。昼四つ時に跡部が坂本を引見した。そして坂本を書院の庭に連れて出て、防備の相談をした。坂本は大川に面した北手の展望を害する梅の木を伐ること、島町に面した南手の控柱と松の木とに丸太を結び附けて、武者走の板をわたすことを建議した。混雑の中で、跡部の指図は少しも行はれない。坂本は部下の同心に工事を命じて、自分でそれを見張つてゐた。

 坂本が防備の工事をしてゐるうちに、跡部は大塩の一行が長柄町から南へ迂廻したことを聞いた。そして杣人足の一組に天神橋と難渡橋との橋板をこはせと云ひ付けた。

 坂本の使者脇は京橋口へ往つて、同心支配広瀬治左衛門、馬場左十郎に遠藤の命令を伝達した。これは京橋口定番米津丹後守昌寿(まさひさ)が去年十一月に任命せられて、まだ到着せぬので、京橋口も遠藤が預りになつてゐるからである。広瀬は伝達の書附を見て、首を傾けて何やら思案してゐたが、脇へはいづれ当方から出向いて承らうと云つた。

 広瀬は雪駄穿で東町奉行所に来て、坂本に逢つてかう云つた。「只今書面を拝見して、これへ出向いて参りましたが、元来お互に御城警固の役柄ではありませんか。それをお城の外で使はうと云ふ、遠藤殿の思召が分かり兼ねます。貴殿はどう考へられますか。」

 坂本は目を【目争】つた。「成程自分の役割は拙者も心得てをります。併し頭(かしら)遠藤殿の申付であつて見れば、縦ひ生駒山を越してでも出張せんではなりますまい。御覧の通拙者は打支度をいたしてをります。」

【目争】の字

 「いや。それは頭御自身が御出馬になることなら、拙者もどちらへでも出張しませう。我々ばかりがこんな所へ参つて働いては、町奉行の下知を受るやうなわけで、体面にも係るではありませんか。先年出水の時、城代松平伊豆守殿へ町奉行が出兵を願つたが、大切の御城警固の者を貸すことは相成らぬと仰やつたやうに聞いてをります。一応御一しよにことわつて見ようぢやありませんか。」

 「それは御同意がなり兼ねます。頭の申付なら、拙者は誰の下にでも附いて働きます。その上叛逆人が起つた場合は出水などとは違ひます。貴殿がおことわりになるなら、どうぞお一人で上屋敷へお出になつて下さい。」

 「いや。さう云ふ御所存ですか。何事によらず両組相談の上で取り計らふ慣例でありますから申し出しました。さやうなら以後御相談は申しますまい。」

 「巳むを得ません。いかやうとも御勝手になさりませい。」

 「然らばお暇しませう。」広瀬は町奉行所を出ようとした。

 そこへ京橋口を廻つて来た畑佐が落ち合つて、広瀬を引き止めて利害を説いた。広瀬はしぶりながら納得して引き返したが、暫くして同心三十人を連れて来た。併し自分は矢張雪駄穿で、小筒も何も持たなかつた。

 坂本は庭に出て、今工事を片づけて持口に附いた同心共を見張つてゐた。そこへ跡部は、相役堀を城代土井大炊頭利位(おほひのかみとしつら)の所へ報告に遣つて置いて、書院から降りて来た。そして天満の火事を見てゐた。強くはないが、方角の極まらぬ風が折々吹くので、火は人家の立て込んでゐる西南の方へひろがつて行く。大塩の進む道筋を聞いた坂本が、「いかがでございませう、御出馬になりましては」と跡部に言つた。「されば」と云つて、跡部は火事を見てゐる。暫くして坂本が、「どうもなかなかこちらへは参りますまいが」と云つた。跡部は矢張「されば」と云つて、火事を見てゐる。


森鴎外「大塩平八郎」その5/ その7

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