森 鴎外 (1862−1922)
『大塩平八郎・堺事件』
1940 岩波文庫 所収
平八郎は天神橋のこはされたのを見て、菅原町河岸を西に進んで門樋橋(かどひばし)を渡り、樋上町(ひのうへちやう)河岸を難波橋の袂に出た。見れば天神橋をこはしてしまつて、こちらへ廻つた杣人足が、今難波橋の橋板を剥がさうとしてゐる所である。「それ、渡れ」と云ふと、格之助が先に立つて橋に掛かつた。人足は抜身の鑓を見て、ばらばらと散つた。
北浜二丁目の辻に立つて、平八郎は同勢の渡つてしまふのを待つた。そのうち時刻は正午になつた。
方略の第二段に襲撃を加へることにしてある大阪富豪の家々は、北船場に簇がつてゐるので、もう悉く指顧の間にある。平八郎は伜格之助、瀬田以下の重立つた人々を呼んで、手筈の通に取り掛かれと命じた。北側の今橋筋には鴻池屋善右衞門、同庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の大商人がゐる。南側の高麗橋筋には三井、岩城枡屋等の大店がある。誰がどこに向ふと云ふこと、どう脅喝してどう談判すると云ふこと、取り出した金銭米穀はどう取り扱ふと云ふこと抔は、一々方略に取り極めてあつたので、ここでも為事は自然に発展した。只銭穀の取扱だけは全く予定した所と相違して、雑人共は身に着られる限の金銀を身に着けて、思ひ思ひに立ち退いてしまつた。鴻池本家の外は、大抵金庫を破壊せられたので、今橋筋には二分金が道にばら蒔いてあつた。
平八郎は難波橋の南詰に床几を立てさせて、白井、橋本、其外若党中間を傍にをらせ、腰に附けて出た握飯を噛みながら、砲声の轟き渡り、火焔の燃え上がるのを見てゐた。そして心の内には自分が兼て排斥した枯寂の空(くう)を感じてゐた。昼八つ時に平八郎は引上の太鼓を打たせた。それを聞いて寄り集まつたのはやうやう百五十人許りであつた。その重立つた人々の顔には、言ひ合せた様な失望の色がある。これは富豪を懲らすことは出来たが、窮民を賑すことが出来ないからである。切角発散した鹿台の財を、徒に烏合の衆の攫み取るに任せたからである。
人々は黙つて平八郎の気色を伺つた。平八郎も黙つて人々の顔を見た。暫くして瀬田が「まだ米店が残つてゐましたな」と云つた。平八郎は夢を揺り覚されたやうに床几を起つて、「好い、そんなら手配(てくばり)をせう」と云つた。そして残の人数を二手に分けて、自分達親子の一手は高麗橋を渡り、瀬田の一手は今橋を渡つて、内平野町の米店に向ふことにした。