Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.11.18
2000.1.1訂正

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」 その7

森 鴎外 (1862−1922)

『大塩平八郎・堺事件』
1940 岩波文庫 所収



    

七、船  場

 大塩平八郎は天満与力町を西へ進みながら、平生私曲のあるやうに思つた与力の家々に大筒を打ち込ませて、夫婦町(めうとまち)の四辻から綿屋町を南へ折れた。それから天満宮の側を通つて、天神橋に掛かつた。向うを見れば、もう天神橋はこはされてゐる。ここまで来るうちに、兼て天満に火事があつたら駆け附けてくれと言ひ付けてあつた近郷の者が寄つて来たり、途中で行き逢つて誘はれたりした者があるので、同勢三百人ばかりになつた。不意に馳せ加はつたものの中に、砲術の心得のある梅田源左衛門と云ふ彦根浪人もあつた。

 平八郎は天神橋のこはされたのを見て、菅原町河岸を西に進んで門樋橋(かどひばし)を渡り、樋上町(ひのうへちやう)河岸を難波橋の袂に出た。見れば天神橋をこはしてしまつて、こちらへ廻つた杣人足が、今難波橋の橋板を剥がさうとしてゐる所である。「それ、渡れ」と云ふと、格之助が先に立つて橋に掛かつた。人足は抜身の鑓を見て、ばらばらと散つた。

 北浜二丁目の辻に立つて、平八郎は同勢の渡つてしまふのを待つた。そのうち時刻は正午になつた。

 方略の第二段に襲撃を加へることにしてある大阪富豪の家々は、北船場に簇がつてゐるので、もう悉く指顧の間にある。平八郎は伜格之助、瀬田以下の重立つた人々を呼んで、手筈の通に取り掛かれと命じた。北側の今橋筋には鴻池屋善右衞門、同庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の大商人がゐる。南側の高麗橋筋には三井、岩城枡屋等の大店がある。誰がどこに向ふと云ふこと、どう脅喝してどう談判すると云ふこと、取り出した金銭米穀はどう取り扱ふと云ふこと抔は、一々方略に取り極めてあつたので、ここでも為事は自然に発展した。只銭穀の取扱だけは全く予定した所と相違して、雑人共は身に着られる限の金銀を身に着けて、思ひ思ひに立ち退いてしまつた。鴻池本家の外は、大抵金庫を破壊せられたので、今橋筋には二分金が道にばら蒔いてあつた。

 平八郎は難波橋の南詰に床几を立てさせて、白井、橋本、其外若党中間を傍にをらせ、腰に附けて出た握飯を噛みながら、砲声の轟き渡り、火焔の燃え上がるのを見てゐた。そして心の内には自分が兼て排斥した枯寂の空(くう)を感じてゐた。昼八つ時に平八郎は引上の太鼓を打たせた。それを聞いて寄り集まつたのはやうやう百五十人許りであつた。その重立つた人々の顔には、言ひ合せた様な失望の色がある。これは富豪を懲らすことは出来たが、窮民を賑すことが出来ないからである。切角発散した鹿台の財を、徒に烏合の衆の攫み取るに任せたからである。

 人々は黙つて平八郎の気色を伺つた。平八郎も黙つて人々の顔を見た。暫くして瀬田が「まだ米店が残つてゐましたな」と云つた。平八郎は夢を揺り覚されたやうに床几を起つて、「好い、そんなら手配(てくばり)をせう」と云つた。そして残の人数を二手に分けて、自分達親子の一手は高麗橋を渡り、瀬田の一手は今橋を渡つて、内平野町の米店に向ふことにした。


森鴎外「大塩平八郎」その6その8

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