Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.11.21
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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」 その8

森 鴎外 (1862−1922)

『大塩平八郎・堺事件』
1940 岩波文庫 所収



    

八、高麗橋、平野橋、淡路町

 土井の所へ報告に往つた堀が、東町奉行所に帰つて来て、跡部に土井の指図を伝へた。両町奉行に出馬せいと指図したのである。

 「承知いたしました。そんなら拙者は手の者と玉造組とを連れて出ることにいたしませう。」跡部はかう云つた儘すわつてゐた。

 堀は土井の機嫌の悪いのを見て来たので、気がせいてゐた。そこで席を離れるや否や、部下の与力同心を呼び集めて、東町奉行所の門前に出た。そこには広瀬が京橋組の同心三十人に小筒を持たせて来てゐた。

 「どこの組か」と堀が声を掛けた。

 「京橋組でござります」と広瀬が答へた。

 「そんなら先手(さきて)に立て」と堀が号令した。

 同階級の坂本に対しては命令の筋道を論じた広瀬が、奉行の詞を聞くと、一も二もなく領承した。そして鉄砲同心を引き纏めて、西組与力同心の前に立つた。

 堀の手は島町通を西へ御祓筋まで進んだ。丁度大塩父子の率ゐた手が高麗橋に掛かつた時で、橋の上に白旗が見えた。

 「あれを打たせい」と、堀が広瀬に言つた。

 広瀬が同心等に「打て」と云つた。

 同心等の持つてゐた三文目五分筒が煎豆のやうな音を立てた。

 堀の乗つてゐた馬が驚いて跳ねた。堀はころりと馬から墜ちた。それを見て同心等は「それ、お頭が打たれた」と云つて、ぱつと散つた。堀は馬丁に馬を牽かせて、御祓筋の会所に這入つて休息した。部下を失つた広瀬は、暇乞をして京橋口に帰つて、同役馬場に此顛末を話して、一しよに東町奉行所前まで来て、大川を隔てて南北両方にひろがつて行く火事を見てゐた。

 御祓筋から高麗橋まで三丁余あるので、三文目五分筒の射撃を、大塩の同勢は知らずにしまつた。

 堀が出た跡の東町奉行所ヘ、玉造口ヘ往つた蒲生が大筒を受け取つて帰つた。蒲生は遠藤の所へ乗り付けて、大筒の事を言上すると、遠藤は岡翁助に当てて、平与力四人に大筒を持たせて、目附中川半左衛門方へ出せと云ふ達しをした。岡は柴田勘兵衛、石川彦兵衛に百目筒を一挺宛、脇勝太郎、米倉偵次郎に三十目筒一挺宛を持たせて中川方へ遣つた。中川がをらぬので、四人は遠藤にことわつて、蒲生と一しよに東町奉行所へ来たのである。跡部は坂本が手の者と、今到着した与力四人とを併せて、玉造組の加勢与力七人、同心三十人を得たので、坂本を先に立てて出馬した。此一手は島町通を西へ進んで、同町二丁目の角から、内骨屋町筋を南に折れ、それから内平野町へ出て、再び西へ曲らうとした。

 此時大塩の同勢は、高麗橋を渡つた平八郎父子の手と、今橋を渡つた瀬田の手とが東横堀川の東河岸に落ち合つて、南へ内平野町まで押して行き、米店数軒に火を掛けて平野橋の東詰に引き上げてゐた。さうすると内骨屋町筋から、神明の社の角をこちらへ曲がつて来る跡部の纏が見えた。二町足らず隔たつた纏を目当に、格之助は木筒を打たせた。

 跡部の手は停止した。与力本多や同心山崎弥四郎が、坂本に「打ちませうか、打ちませうか」と催促した。

 坂本は敵が見えぬので、「待て待て」と制しながら、神明の社の角に立つて見てゐると、やうやう烟の中に木筒の口が現れた。「さあ、打て」と云つて坂本は待ち構へた部下と一しよに小筒をつるべかけた。

 烟が散つてから見れば、もう敵は退いて、道が橋向まで開いてゐる。橋詰近く進んでみると、雑人が一人打たれて死んでゐた。

 坂本は平野橋へ掛からうとしたが、東詰の両側の人家が焼けてゐるので、烟に噎んで引き返した。そして始て敵に逢つて混乱してゐる跡部の手の者を押し分けながら、天神橋筋を少し南へ抜けて、豊後町を西へ思案橋に出た。跡部は混乱の渦中に巻き込まれてとうとう落馬した。

 思案橋を渡つて、瓦町を西へ進む坂本の跡には、本多、蒲生の外、同心山崎弥四郎、糟谷助蔵等が切れぎれに続いた。

 平野橋で跡部の手と衝突した大塩の同勢は、又逃亡者が出たので百人余になり、浅手を負つた庄司に手当をして遣つて、平野橋の西詰から少し南へよぢれて、今淡路町を西へ退く所である。

 北の淡路町を大塩の同勢が一歩先に西へ退くと、それと併行した南の瓦町通を坂本の手の者が一歩遅れて西へ進む。南北に通じた町を交叉する毎に、坂本は淡路町の方角を見ながら進む。一丁目筋と鍛冶屋町筋との交叉点では、もう敵が見えなかつた。

 堺筋との交叉点に来たとき、坂本はやうやう敵の砲車を認めた。黒羽織を着た大男がそれを挽かせて西へ退かうとしてゐる所である。坂本は堺筋西側の紙屋の戸口に紙荷の積んであるのを小楯に取つて、十文目筒で大筒方らしい、彼(かの)黒羽織を狙ふ。さうすると又東側の用水桶の蔭から、大塩方の猟師金助が猟筒で坂本を狙ふ。坂本の背後(うしろ)にゐた本多が金助を見付けて、自分の小筒で金助を狙ひながら、坂本に声を掛ける。併し二度まで呼んでも、坂本の耳に入らない。そのうち大筒方が少しづつ西へ歩くので、坂本は西側の人家に沿うて十間程前へ出た。三人の筒は殆同時に発射せられた。

 坂本の玉は大砲方の腰を打ち抜いた。金助の玉は坂本の陣笠をかすつたが、坂本は只顔に風が当つたやうに感じただけであつた。本多の玉は全く的をはづれた。

 坂本らは稍久しく敵と鉄砲を打ち合つてゐたが、敵がもう打たなくなつたので、用心しつゝ淡路町の四辻に出た。西の方を見れば、もう大塩の同勢は見えない。東の方を見れば、火が次第に燃えて来る。四辻の辺に敵の遺棄した品々を拾ひ集めたのが、百目筒三挺車台付、木筒二挺内一挺車台付、小筒三挺、其外鑓、旗、太鼓、火薬、葛籠、具足櫃、長持等であつた。鑓のうち一本は、見知つたものがあつて平八郎の持鑓だと云つた。

 玉に中つて死んだものは、黒羽織の大筒方の外には、淡路町の北側に雑人が一人倒れてゐるだけである。大筒方は大筒の側に仰向に倒れてゐた。身の丈六尺余の大男で、羅紗の黒羽織の下には、黒羽二重紅裏の小袖、八丈の下着を着て、裾をからげ、袴も股引も着ずに、素足に草鞋を穿いて、立派な拵の大小を帯びてゐる。高麗橋、平野橋、淡路町の三度の衝突で、大塩方の死者は士分一人、雑人二人に過ぎない。堀、跡部の両奉行の手には一人の死傷もない。双方から打つ玉は大抵頭の上を越して、堺筋では町家の看板が蜂の巣のやうに貫かれ、檐口(のきぐち)の瓦が砕かれてゐたのである。

 跡部は大筒方の首を斬らせて、鑓先に貫かせ、市中を持ち歩かせた。後にこの戦死した唯一の士が、途中から大塩の同勢に加はつた浪人梅田だと云ふことが知れた。

 跡部が淡路町の辻にゐた所へ、堀が来合せた。堀は御祓筋の会所で休息してゐると、一旦散つた与力同心が又ぽつぽつ寄つて来て、二十人ばかりになつた。そのうち跡部の手が平野橋の敵を打ち退けたので、堀は会所を出て、内平野町で跡部に逢つた。そして二人相談した上、堀は跡部の手にゐた脇、石川、米倉の三人を借りて先手(さきて)を命じ、天神橋筋を南へ橋詰町迄出て、西に折れて本町橋を渡つた。これは本町を西に進んで、迂廻して敵の進路を絶たうと云ふ計画であつた。併し一手のものが悉く跡へ跡へとすざるので、脇等三人との間が切れる。人数もぽつぽつ耗(へ)つて、本町堺筋では十三四人になつてしまふ。そのうち瓦町と淡路町との間で鉄砲を打ち合ふのを見て、やうやう堺筋を北へ、衝突のあつた処に駆け付けたのである。

 跡部は堀と一しよに淡路町を西へ踏み出して見たが、もう敵らしいものの影も見えない。そこで本町橋の東詰まで引き上げて、二人は袂を分ち、堀は石川と米倉とを借りて、西町奉行所へ連れて帰り、跡部は城へ這入つた。坂本、本多、蒲生、柴田、脇並に同心等は、大手前の番場で跡部に分れて、東町奉行所へ帰つた。


森鴎外「大塩平八郎」その7その9

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