Я[大塩の乱 資料館]Я
1999.11.25
2000.1.1訂正

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」 その9

森 鴎外 (1862−1922)

『大塩平八郎・堺事件』
1940 岩波文庫 所収



    

九、八軒屋、新築地、下寺町

 梅田の挽かせて行く大筒を、坂本が見付けた時、平八郎はまだ淡路町二丁目の往来の四辻に近い処に立ち止まつてゐた。同勢は見る見る耗つて、大筒の車を挽く人足にも事を闕くやうになつて来る。坂本等の銃声が聞えはじめてからは、同勢が殆無節制の状態に陥り掛かる。もう射撃をするにも、号令には依らずに、人々勝手に射撃する。平八郎は暫くそれを見てゐたが、重立つた人々を呼び集めて、「もう働きもこれまでぢゃ、好く今まで踏みこたへてゐてくれられた、銘々此場を立ち退いて、然るべく処決せられい」と云ひ渡した。

 集まつてゐた十二人は、格之助、白井、橋本、渡辺、瀬田、庄司、茨田、高橋、父柏岡、西村、杉山と瀬田の若党植松とであつたが、平八郎の詞を聞いて、皆顔を見合せて黙つてゐた。瀬田が進み出て、「我々はどこまでもお供をしますが、御趣意はなるべく一同に伝へることにしませう」と云つた。そして所々(しよしよ)に固まつてゐる身方の残兵に首領の詞を伝達した。

 それを聞いて悄然と手持無沙汰に立ち去るものもある。待ち構えたやうに持つていた鑓、負つてゐた荷を棄てて、足早に逃げるものもある。大抵は此場を脱け出ることが出来たが、安田が一人逃げおくれて、町家に潜伏したために捕へられた。此時同勢の中に長持の宰領をして来た大工作兵衞がゐたが、首領の詞を伝達せられた時、自分だけはどこまでも大塩父子の供がしたいと云つて居残つた。質僕な職人気質(かたぎ)から平八郎が企ての私欲を離れた処に感心したので、強ひて与党に入れられた怨を忘れて、生死を共にする気になつたのである。

 平八郎は格之助以下十二人と作兵衞とに取り巻かれて、淡路町二丁目の西端から半丁程東へ引き返して、隣まで火の移つてゐる北側の町家に踏み込んだ。そして北裏の東平野町へ抜けた。坂本等が梅田を打ち倒してから、四辻に出るまで、大ぶ時が立つたので、この上下十四人は首尾好く迹を晦ますことが出来た。

 此時北船場の方角は、もう騒動が済んでから暫く立つたので、焼けた家の址から青い煙が立ち昇つてゐるだけである。何物かに執着して、黒く焦げた柱、地(ぢ)に委ねた瓦のかけらの側を離れ兼ねてゐるやうな人、獣の屍の腐る所に、鴉や野犬の寄るやうに、何物をか捜し顔にうろついてゐる人などが、互に顔を見合せぬやうにして行き違ふだけで、平八郎等の立ち退く邪魔をするものはない。八つ頃から空は次第に薄鼠色になつて来て、陰鬱な、人の頭を押さへ附けるやうな気分が市中を支配している。まだ鉄砲や鑓を持つてゐる十四人は、詞もなく、稲妻形に焼跡の町を縫つて、影のやうに歩(あゆみ)を運びつつ東横堀川の西河岸へ出た。途中で道に沿うて建て並べた土蔵の一つが焼け崩れて、壁の裾だけ残つた中に、青い火がちよろちよろと燃えてゐるのを、平八郎が足を停めて見て、懐から巻物を出して焔の中へ投げた。これは陰謀の檄文と軍令状とを書いた裏へ、今年の正月八日から二月十五日までの間に、同盟者に記名調印させた連判状であつた。

 十四人はたつた今七八十人の同勢を率ゐて渡つた高麗橋を、殆世を隔てたやうな思をして、同じ方向に渡つた。河岸に沿うて曲つて、天神橋詰を過ぎ、八軒屋に出たのは七つ時であつた。ふと見れば、桟橋に一艘の舟が繋いであつた。船頭が一人艫の方に蹲つてゐる。土地のものが火事なんぞの時、荷物を積んで逃げる、屋形のやうな、余り大きくない舟である。平八郎は一行に目食はせをして、此舟に飛び乗つた。跡から十三人がどやどやと乗り込んだ。 

「こら。舟を出せ。」かう叫んだのは瀬田である。

 不意を打たれた船頭は器械的に起つて纜を解いた。

 舟が中流に出てから、庄司は持つてゐた十文目筒、其他の人々は手鑓を水中に投げた。それから川風の寒いのに、皆着込を脱いで、これも水中に投げた。

 「どつちへでもよいから漕いでをれ。」瀬田はかう言つて、船頭に艪を繰らせた。火災に遭つたものの荷物を運び出す舟が、大川にはばら蒔いたやうに浮かんでゐる。平八郎らの舟がそれに雑つて上つたり下だつたりしてゐても、誰も見咎めるものはない。

 併し器械的に働いてゐる船頭は、次第に醒覚して来て、どうにかして早くこの気味の悪い客を上陸させてしまはうと思つた。「旦那方どこへお上りなさいます。」

 「黙つてをれ。」と瀬田が叱つた。

 平八郎は側にゐた高橋に何やらささやいだ。高橋は懐中から金を二両出して船頭の手に握らせた。「いかい世語になるのう。お前の名はなんと云ふかい。」

 「へえ。これは済みません。直吉と申します。」

 これからは船頭が素直に指図を聞いた。平八郎は項垂(うなだ)れるてゐた頭(かしら)を挙げて、「これから拙者の所存をお話いたすから、一同聞いてくれられい」と云つた。所存というのは大略かうである。此度の企は残賊を誅して禍害を絶つと云う事と、私蓄を発いて陥溺を救うと云う事の二つを志した者である。然るに彼は全く敗れ、此は成るに垂(なんなん)として挫けた。主謀たる自分は天をも怨まず、人をも尤めない。只気の毒に堪へぬのは、親戚故旧友人徒弟たるお前方である。自分はお前方に罪を謝する。どうぞ此同舟の会合を最後の団欒として、袂を分つて陸に上り、各(おのおの)潔く処決して貰ひたい。自分等父子は最早思ひ置くこともないが、跡には女小供がある。橋本氏には大工作兵衛を連れて、いかにもして彼等の隠家へ往き、自裁するやうに勧めて貰ふことを頼むと云ふのである。平八郎の妾以下は、初め般若寺村の橋本方へ立ち退いて、それから伊丹(いたみ)の紙屋某方へ往つたのである。後に彼等が縛に就いたのは京都であつたが、それは二人の妾が弓太郎を残しては死なれぬと云ふので、橋本が連れてさまよひ歩いた末である。

 暮六つ頃から、天満橋北詰の人の目に立たぬ所に舟を寄せて、先づ橋本と作兵衛とが上陸した。次いで父柏岡、西村、茨田、高橋と瀬田に暇を貰つた植松との五人が上陸した。後に茨田は瀬田の妻子を落して遣つた上で自首し、父相岡と高橋とも自首し、西村は江戸で願人坊主になつて、時疫で死に、植松は京都で捕はれた。

 跡に残つた人々は土佐堀川から西横堀川に這入つて、新築地に上陸した。平八郎、格之助、瀬田、渡辺、庄司、白井、杉山の七人である。人々は平八郎に迫つて所存を問うたが、只「いずれ免れぬ身ながら、少し考がある」とばかり云つて、打ち明けない。そして白井と杉山とに、「お前方は心残りのないやうにして、身の始末を附けるが好い」と云つて、杉山には金五両を渡した。

 一行は暫く四つ橋の傍に立ち止まつてゐた。其時平八郎が「どこへ死所(しにどころ)を求めに往くにしても、大小を挿してゐては人目に掛かるから、一同刀を棄てるが好い」と云つて、先づ自分の刀を橋の上から水中に投げた。格之助始、人々もこれに従つて刀を投げて、皆脇差ばかりになつた。それから平八郎の黙つて歩く跡に附いて、一同下寺町まで出た。ここで白井と杉山とが、いつまで往つても名残りは尽きぬと云つて、暇乞をした。後に白井は杉山を連れて、河内国渋川郡大蓮寺村の伯父の家に往き、鋏を借りて杉山と倶に髪を剪り、伏見へ出ようとする途中で捕はれた。

 跡には平八郎父子と瀬田、渡辺、庄司との五人が残つた。そのうち下寺町で火事を見に出てゐた人の群れを避けようとするはずみに、庄司が平八郎等四人にはぐれた。後に庄司は天王寺村で夜を明かして、平野郷から河内、大和を経て、自分と前後して大和路へ奔つた平八郎父子には出逢はず、大阪へ様子を見に帰る気になつて、奈良まで引き返して捕はれた。

 庄司がはぐれて、平八郎父子と瀬田、渡辺との四人になつた時、下寺町の両側共寺ばかりの所を歩きながら、瀬田が重ねて平八郎に所存を問うた。平八郎は暫く黙つてゐて答へた。「いや先刻考えがあるとは云つたが、別にかうと極つた事ではない。お前方二人は格別の間柄だから話して聞かせる。己は今暫く世の成行を見てゐようと思ふ。尤も間断なく死ぬる覚悟をしていて、恥辱を受けるやうな事はせぬ」と云つたのである。これを聞いた瀬田と、渡辺とは、「そんなら我々も是非共御先途を見届けます」と云つて、河内から大和路へ奔ることを父子に勧めた。四人の影は平野郷方角へ出る畑中道の闇の裏に消えた。


森鴎外「大塩平八郎」その8/ その10

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ