Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.4.30修正
1999.8.26

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大塩の乱関係論文集目次


〔篠山藩大塩七郎書状の解説〕

大塩家家譜覚書 −天満・名古屋・篠山を結ぶ−

大塩事件研究会会長 酒井一

『大塩研究 第40号』1999.3より転載


◇禁転載◇

 丹波国篠山藩の大塩邸は城下の北新町にあった。子孫に当たる大塩二郎氏(西宮市在住)は今も本籍地をここに置いている。現・兵庫県多紀郡篠山町河原町にある観音寺には大塩家の墓碑と位牌がある。大塩二郎氏の調査によると、位牌は寛政二年(一七九〇)・弘化四年(一八五一)・安政・慶応・明治に及ぶ一一基で、このうち俗名のわかるのは弘化四年没の「孫三郎」だけという。篠山家中で大塩家は一軒のみで、弓の家筋という伝えもある。常松隆嗣氏によって紹介された淀藩弓師範竹林吉万宛書状の内容と符合し、発信人の大塩七郎は二郎氏のまぎれもない先祖である。同家は維新後しばらく教師をしたあと大阪を経て神戸に住み ここで、昭和二十年(一九四五)の大空襲に遭い、二郎氏は父を喪った。

 篠山大塩家と大坂天満大塩家との交流を直接示す史料は、ここに紹介された書状のほかにもう一点ある。石崎東国氏の『大塩平八郎伝』(大鐙閣、一九二〇年)にある、「洗心洞外集」下巻所収の大塩格之助から尾州宗家の大塩波右衛門に宛てた十二月甘一日付の書状で、石崎氏は大塩年譜の天保六年の項に収めて、全文も示されている。これによると篠山藩家臣大塩九右衛門老人の名代で惣領の七郎(四四歳)が、先月(十一月)に格之助と「同列共之内由比一郎助紹介」で平八郎と面談したという。格之助と同じ大坂東町奉行所与力の由比一郎助が間に入って初めての交流である。九右衛門家の由緒書の調査のために、尾張名古屋の大塩宗家への手筋を依頼するためで、「同苗平八郎に面会頼来」とあり、「同苗」は篠山側の表現とみられる。格之助は平八郎中斎については、「親共迄問合」として「親共」と記している。篠山大塩家には系図書と訳書があり、格之功は名古屋宛の書状に添付したらしい。篠山では先年先祖の由緒書を焼失し、尾州宗家へ尋ねたいが手掛かりがないので、父の平八郎まで問い合わせてきたのである。格之助が紹介の労をとった。篠山大塩家の記録では尾州の大塩波右衡門の兄弟に内蔵助という人物がいるが、尾州で確認できるか、格之助側、つまり天満大塩家では「一向不相弁候」という。また森大内記という人が内蔵助の母方の叔父といい、もしそうなら兄弟と思われる波右衛門にとっても叔姪の間柄になるので調べてほしい、その上で相違なければ九右衛門から直接文通させると述べている。本紋は丸の内に鷹の羽の打ち違い、替紋は桐とも記している。天満大塩家の紋は揚羽蝶である。

 天満大塩家が尾州宗家と深い交流が生じた(再燃)のは、平八郎が町奉行所与力を引退した直後の文政十三年(一八三○)九月のことである。同月付の頼山陽の「送大塩子起適尾張序」に詳しい。平八郎の宗家を訪ねたいという思いは、これも有名な「寄一斎佐藤氏書」にいう「僕之志有三変焉」とするその最初の転機で、一五歳の時家譜を読んで、祖先が今川氏の臣でその一族であり、今川氏滅亡後神君・徳川家康に仕えて天正十八年(一五八○)の秀吉小田原攻めに加わり、敵将を馬前に刺した功により弓を与えられ、豆州三島塚本村に采地を給されたこと、その後尾藩に属し、嫡子がその家を継いで今日に至り、季子が大阪市吏となってこれがわが先祖であることを知ったことによる。この回心の契機を宗家で確かめるため、激務の与力職を退いて閑逸を得た文政十三年に年来の思いを達し、名古屋で家康拝領の弓と系譜を見、そこにしばらく滞在したりした。城戸久氏の『先覧と遺宅』(那珂書店、一九四二年)には名古屋市東区白髪町(現・自髪四丁目)にあった「大塩中斎隠栖の家」が写真四点、平面図とともに紹介されている。調査時の当主は大塩釟太郎氏で、同家の離屋としてすこぶる簡素明快を旨とし大塩の人柄が偲ばれる建築と評価されたが、惜しくも戦災によって焼失した。

九八年四月十八日にNHK大阪放送局が番組「堂々日本史」で大塩平八郎をとりあげた時、浜松市在住の大塩治人家に伝わるこの弓が放映され、放送局に貸し出された「家譜」も大塩家とNHKの好意で井形正寿氏・大塩二郎氏らとともに実見する機会に恵まれた。美濃紙タテ帳、一八丁の冊子で、表紙に「系譜」とあり、源義勝(波右衛門、幼名五左衛門、四郎兵衛)から始まる十代にわたる当主の名、略譜等が記されている。この「系譜」は改めて紹介する必要があるが、当面主題に関連した部分のみ抄出してみる。初代大塩波右衛門義勝は寛永七年(一六三〇)二月十六日没であるが、その弟に成一(大塩六兵衛)があり、「承応二年(一六五三〉巳九月松平隼人正殿大坂町奉行之節与力被 召出系別(ママ)ニ有」と書かれている。これが天満大塩家の始祖で、別に系図があったらしい。ここでは兄弟は二人だけになっている。

 今しばらくこの「系譜」を追うと、七代目義雄(波右衛門、金之丞)の項に、「文化六巳(一八〇九)六月忰同姓満右衛門儀大坂町奉行与力大塩政之丞所江当時之内差遣度願済」とあり、当の大塩満右衛門義国の欄には、「天明五巳(一七八五)八月廿八日源明様御代初而御目見、享和二年(一八〇二)戌十一月病身ニ付願之上御目見差上」と書かれている。満右衛門は一且藩主へ御目見しながらその資格を返上し、一時天満の政之丞の許に預けられたらしい。平八郎中斎の祖父に当たる政之丞は、この少し前の寛攻十一年(一七九九)五月十一日に嫡子の平八郎敬高を三○歳で、翌十二年九月二十目には敬高の妻を相次いで喪い、中斎の継祖母に当たるお勢と、寛攻五年生まれの幼い中斎を抱えて与力勤めの最中であった。満右衛門の大坂行きはこの事情と関連あるのだろう。ちなみに政之丞は文政元年(一八一八)六月二日に六八歳で、お勢は文攻十一年に没するまで中斎をよく育成した。

 満右衛門についてはこれ以上わからないが、この系譜からみる限り、祖父夫婦と幼少の中斎のひところに天満と名古屋とは交流があったことになる。なおこの系譜とともに大阪放送局へは同じ大塩治人氏所蔵の「題始祖義行公御弓」の掛軸も届けられて眼福に恵まれた。宗家訪問に当たって文攻十三年十月に「浪華隠士大塩後素」の名で書いたもので、全文は石崎氏の前掲書に紹介されているが、文末の箇所を示すと「吾大宗大塩氏者先世仕于 尾藩、余致仕而遠訪其宗、瞻拝 神君嘗所錫吾 始祖善行公之弓、以追感往事」云々とある。善行公は義勝のことである。

 一方、大塩家菩提寺の成正寺先住有光友逸師は、生前同寺の墓碑や新寂帳を手掛かりに大塩家系図の復原に努められていたが、その研究によると(有光友逸「大塩中斎の家系略図と墓碑の所在、大塩家と成正寺」『大塩研究』第一六号)、大塩波右衛門義勝に三人の男子があり、一人が波右衛門で本家尾張徳川家臣で、大塩明人氏につながり、次に内蔵助政屋(初津山藩、後篠山藩)で大塩二郎氏につながり、三人目が成一で大坂大塩家の初代でその始は内山氏とする。これによって、天満大塩成一が季子とよばれてその上に兄がいて篠山藩中に続くことがわかる。篠山分家については同家の文書を利用されたらしいが、名古屋の「系譜」とは相違がある。

大塩格之助書状にある「先月中私同列共之内由比一郎助紹介を以」とある由比について少し触れておく。東町奉行所与力には由比姓が二家あり、一家が由比一郎助とその子弥三太郎である。天保七年(一八三六)の御役録では一郎助は諸御用調役と川役、弥三太郎は目安証文役で、屋敷図には一戸に両人の名が連記されている。翌八年の御役録では目安証文役の弥三太郎の名のみで、屋敷もそうなっている。この間一郎助に変化(引退?)があったのであろう。天保八年の御役録は「年頭改正」とあってここには「御普請」役の大塩格之助の名が刻まれ、屋敷もそうなっている。乱は二月十九日のことである。もう一家は由比彦之進で、天保七年には目安証文役、八年には万之助の名に変わっている。両家とも紋所は丸に立三つ引である。乱によって一郎助と彦之進も取り調べをうけたが、「無構」となっている。とくに大塩とのつながりの強かったのは彦之進である。大塩門人で大塩の著作「儒門空虚聚語」の付録にある門人たちからの質問のうち、第七文に「答由比計義書略」とある。計義は「箚記」をよんで大塩のいう太虚の思想に共鳴したが、常人は太虚に帰することは稀で人欲に流される者が多い、こうした人欲の苦悩をどうして免がれ天理の公にいたるかと問うた。これに対して大塩は天地仁義礼智の主宰であり、だれもがもっている良知が天理の公であり、計義が昼夜努めていることを「人たる者か」と評価している。この計義が幸田成友氏の推定どおり彦之進である。乱に参加した瀬田済之助の親族書をみると(『大塩平八郎一件書留』東京大学出版会、一九八七年)、実の姉の聟が由比彦之進で、姉夫婦の娘たきは姪に当たり、そこへ養子万之助を迎えたことがわかる。彦之進の父助太夫は済之助の養父藤四郎の砲術の師でもあり、乱に際して済之助は彦之進から百目筒を藤四郎の添書を持参して密かに借用した。  

 さて、大塩七郎の竹林吉万宛書状の年代である。石崎氏が十二月廿一目付格之助の大塩波右衛門宛書状を天保六年としたことを正しいとすれぱ、かなり特定できる。交流のなかった篠山大塩家から天満の大塩平八郎を訪ねたのは「先月」、つまり天保六年十一月のこととなる。そして七郎が「去冬より大坂ニ罷在候私本家天満与力大塩平八郎」とする「去冬」はこの年月を指し、七郎の手紙は天保七年のこととなる。それも十一月十一日であるから、すでに乱への道が徐々にみえ始める頃である。檄文の原文は十二月作成と私は推定しているが、かなり切羽詰まった時である。文中の「天満与力」は平八郎在職中とみなくてよい。なぜなら天保六年の格之助が名古屋宗家へ自分の名で篠山大塩家を紹介し、当主の仕事として話を取り次いだとみられるからであり、由比一郎助について「私同列」、つまり同輩の与力とし平八郎を「親共迄問合」と記していて、親に代わって正式に宗家への礼を尽くしていると考えられるからである。

 文政十三年九月・十月の宗家訪問後、大塩は一段と先祖への思いが深まったようで、たとえば天保三年の与力荻野四郎助(のち七右衛門)宛や同じく関根彦九郎宛の書状にも先祖に触れている。そこへ思いがけぬ災厄がやってくる。天保五年七月十一日の堂島新地北町からの出火で菩提寺の成正寺も蓮興寺も類焼し、成正寺の大塩家の墓も損傷した。そこで大塩は翌六年十二月に祖父政之丞と父平八郎敬高の墓碑を新補し、これが現存している。なお旧墓碑はこの折地下に埋められていたが、一九五八年十月に寺域の墓地整備の際大塩関係の墓碑が四基発見された(有光友逸、前掲論文『大塩研究』第一六号、井形正寿「大塩ゆかりの史蹟を訪ねる(二)」『大塩研究』第二〇・二一号)。篠山から縁者が訪れて来たのは、墓碑改葬の準備中のことである。これに少し先だった四月に大塩は「洗心洞箚記」に付録抄を加えて天文堂間五郎兵衛(重新)の蔵刻として出版していた。二年前に家塾蔵板をさらに世に問うものであり、この出版に至って大塩の名はかなり響くことになった。このような中での両家の交流の開始であった。

 (追記)ここでは、天満と篠山の大塩家をめぐる家譜の一端を記したが、より正確な年代比定はとりわけ篠山側の墓碑、位牌などの調査にまつところが多い。今後に期待したい。

 なお、大塩二郎氏からのその後の連絡によると、天保十四年七月二十五日没の「大機院蒼穹禅隆居士」 という戒名の位牌がある由、大塩九右衛門のことと思われる。


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